里子の話。

何の気なしにあることを思い出すことがある。何かを思い出すと、頭はそのことをより思い出そうと働く。そして、それをだんだん思い出していくうちに、なぜそれを急に思い出したのかは忘れてしまう。

さっき丁度そんなことがあった。10年ほど前に東京で仕事をしていた頃の話だ。

当時の僕はマネージャーとして、20人くらいの飛び込み営業アルバイトのリーダーをしていた。そのバイトの中に大和里子(おおわさとこ)と言う女の子がいた。

身長は低く、清楚な黒髪ショートで化粧っ気はないが顔は割と整っていて、体型は痩せてもなく太くもない、いわゆる全てが標準の目立たない印象の子だった。

アルバイトには他に何人か派手な女の子がいて、定期的に開かれる飲み会では、いつもその派手な女の子たちがフューチャーされていた。それに対して里子は隅っこでお酒とソフトドリンクをバランスよく飲み、決して酔っ払うことはない、そんな感じの女の子だ。

アルバイトの仕事の出来不出来はマネージャーである僕の悩みの種だった。20人もいれば営業成績が不振の子は一人か二人はいる。しかし、全体的に僕の管轄のアルバイトの子達は優秀だった。そのおかげで、ありがたいことに僕は会社内でも異例の出世をしていた。

里子は常にアルバイトの中で真ん中よりも少し上の成績だった。とても生真面目で、営業成績のために努力を惜しまない子だった。アルバイトなのに仕事を休むことはなく、いつも早めに出社して他の人の準備までするタイプの子だった。僕はその態度に非常に好感を持っていて、仕事前に里子にジュースを買ってあげたり、お菓子をあげたりと、とても可愛がっていた。

僕はマネージャーとして、バイトの子と全員と月に一度、一対一の面談の機会を設けていた。たいていのアルバイトは仕事の悩みや、学校のこと、これからどうして行きたいかといった内容の話だったが、里子だけは他の子と様子が違った。

里子は不満を決して言わずにいつも僕にお礼を言うのだ。仕事の話を振っても、今にとても満足してる。と彼女は笑顔で答える。その度に僕は、なんとなく彼女と距離を感じていた。

ある日、たまたま他のバイトの子が休んで、里子が一人で出勤する日があった。その日は午前中は里子と僕の二人だけだった。

午前中のシフトが終わり、里子が退勤する時に僕は彼女を昼飯に誘った。そして、二人で飯を食べている時に、里子は唐突にある事を語り出した。

その話を要約すると、里子の家はある新興宗教に入っていて、里子もそこの信者だと言う事だった。でも里子はなんとなくそういった新興宗教に社会が偏見を持つ事も知っているようだった。

生まれた時から両親が入信しているし、生活の全ては宗教が中心だった。自分は両親ほど盲目的にそれを信じてる訳ではないが、その宗教をある程度は信じている。そして、その儀礼や習わしにも応じているとのことだった。

小さい頃から街頭演説のサポートや、集会のお手伝い、新しい入信者のケア、子供の信者の集会への参加などをしてきたようだった。そして、これからもそれを続けて、やがては信者同士で合同の結婚式をすると彼女は笑いながら話してくれた。

以前、里子には彼氏がいると聞いていたので、僕はその彼も信者なの?と聞いてみた。里子は首を振った。彼は外の友達。今はすべての事情も話している。でも彼は私と一緒にいてくれる大切な人と里子は答えた。

里子の入信してる宗教はキリスト系の教えで、婚前交渉はご法度だった。でも里子は今の彼とセックスをしたらしい。その事を両親に告白したら、ただただ両親は泣いてしまったようだ。里子はそれをみて悲しくてたまらなかったと、苦笑いしながら語ってくれた。

彼とは一緒にいたいけど、両親も教団の人達もみんな彼との交際に反対らしい。処女を失ってしまった過ちを悔いて、教団内で合同結婚をすることが教団的には望ましい未来であるとハッキリ両親に言われて、里子は迷っていた。

両親は好き。教団の仲間たちも嫌いではないし、教団に携わり続けることも個人的には苦ではない。でも自分は周りの信者に比べて明らかに信仰が薄い。そして、何より今の彼と別れたくはない。

でも、どうすることもできないと彼女は分かっていた。教団はそこまで高圧的ではないらしく、彼と無理矢理に別れさせられることもない。ただ時間が過ぎていくだけなのだ。

周りと合わない状態で、居心地の悪いまま、背徳感と共にただ時間だけが過ぎていく。僕はその話を聞いて宗教ってのは呪いみたいだなと寒気がした。

里子は笑いながら言った。私は今まで誰も他人を入信させたことがないんです。だから教団ではお荷物なんです。別にそれでもいいんですけど、ただ誰かを宗教に誘うとかは全くやる気がなくて…

僕は彼女に聞いてみた。それは自分が入っている状態で幸せじゃないから他人を巻き込まないんじゃないの?

里子は微笑んだ。半分正解で半分ハズレです。私と同じ思いを誰かにして欲しくはないけど、私は今、私なりに幸せなんです。

それは、嘘偽りのない微笑だった。そして、里子は飯を食い終わると笑顔で帰って行った。今日の話を誰にも言わないでとも言わずに帰って行った。そして、もちろん僕は誰にもそのことは言わなかった。

里子はそれからも仕事の日は必ず15分前に出社して、誰よりも真面目に働いた。そして、いつも僕に感謝を伝えてくれた。

僕は里子にその後どうなったかは聞かなかった。それは彼女は別に不幸ではないと思ったからだ。僕の価値観を当てはめて考えるとそれは不幸かも知れないが、彼女にとって、きっとそれは不幸ではない気がしたから。

その後、里子は大学で就活が始まるとバイトを辞めていった。最後のシフトまで一生懸命働いて、その日には僕に菓子折りと手紙まで書いてきてくれた。僕は里子の為に送別会的な飲み会を開いた。里子はいつも通り微笑みながらお酒とソフトドリンクを交互に飲んでいた。

家に帰り手紙を開くと、長々と僕へのお礼が書かれていた。僕は手紙のある部分で少し寂しくなった。

「あまり他人に宗教の話をしたことはありませんでしたが、お話を聞いてもらえて少しだけ心が軽くなりました。マネージャーは肯定も否定もせずに聞いてくださいましたね。それでも私は分かってたんです。マネージャーが宗教とかお嫌いで、本当は辞めろよって言いたかったこと。でも言わなかったのはきっと優しさですよね。(中略)彼とは別れました。彼の両親のことを考えると、そうすることが一番だなってお互いに話して別れました。今では私、街頭演説もしてるんですよ(笑)そんな女が彼女なんて彼がかわいそうですよね。
マネージャーは覚えてないと思いますが面接の時に私こう言われたんです。「やってみないと分からないから、君は合格でいいや。仕事は習うより慣れろだから。」今まで割とバイトの面接は嫌いだったけど、あの時私すごく嬉しかったのです。何も聞かずに、ただその時の私をみて決めてくれた気がして、嬉しかったんです。だから私なりに真面目に一生懸命働きました。
マネージャーは女性に優しいけど気を使い過ぎなところありますよね。女は割と図太いので、もっと色々聞いたり、文句言ってもいいと思いますよ。
最後に、マネージャーから頂いた成績優秀賞のポチ袋に入った1000円札は全部取ってあるんです。私、7個も持ってるんですよ。凄くないですか?笑 社会に出て社会でお仕事をしてお金とか、それ以上のものを貰えるって嬉しいことですよね。だからこの7000円は一生の宝物です。ずっと記念に取っておきます。
(中略)これからは私は大学を卒業して、就職して、ずっと教団の中で生きていくと思います。マネージャーもお身体に気をつけて」


それから、里子とは一度も会っていない。でもきっと今でも里子は里子らしく前向きに生きていると思う。里子にとってそれが幸せなら僕は嬉しい。

おわり

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