各務原物語(抄)

バースデー

 二十歳になったお祝いをアルバイト先のみんながしてくれるというので、わたしは今日、職場であるこの喫茶店に客としてきている。大学に入って何かアルバイトをしなければいけないと思って始めた仕事であったのだが、ここのアルバイトは夜の部から勤務が始まるところが一つのネックだった。当時閉店が二十三時で、いくら家が近いからと言っても最後の掃除まで残ってくると自宅に帰ってくるのにシンデレラのような日々ではきついものがある。それにも増して、うちのお父さんが厳しくてなかなか夜の外出を認めてくれなかったからだった。いまどき女子大生がアルバイトを決めるのに父子同伴で面接を受けるなんてことはあるのだろうか。しかし、実際うちのお父さんは喫茶店の面接についてきたのだから仕方がない。お父さんはわたしの勤務条件に付いてかなり口を出してきたのだけれど、最後には研修期間が過ぎたら二十歳の誕生日を迎えるまでは夜勤はさせないということでアルバイトに就くことを認めてくれた。わたしは二十歳を迎え、いよいよ夜勤も解禁となる時が来ていた。今夜はみんながそれを含めて祝ってくれる、特別な日でもあるのだった。

 集まってくれたのは、パート勤務の恭子さん、一年先輩の芽衣さんに同い年の遥だ。遥は同い年と言っても高校時分からここでバイトをしている。また、今日の勤務は慎二君と元さんと厨房に西山さんだ。わたしたち四人が揃ったところで慎二君が注文を取りに来た。お互い知った者同士、客と従業員の垣根なんてなかった。慎二君も今日がわたしの誕生日だということは心得ていて、

「おめでとう」

 というのを忘れなかった。わたしたちはたわいもない話に盛り上がっていた。そこへ入り口からお客さんが入ってくる音がして、二人の男性がわたしたちのすぐ奥の席に陣取った。二人とも夜やって来る常連さんだった。通常は研修期間は半年で卒業できるのだけれど、この片方の客がどうやらわたしびいきで、なかなか客足が伸びない夜間の部で一人でもたくさんの客を拾おうと、店長がわたしの研修期間を一年にしたため、馴染みのお客さんになっていた。研修期間を終えてわたしが昼勤務になると、二人は昼間にも顔を出すようになったらしい。今晩は客だとは言うもののわたしが夜ここにいたためか、その人はわたしたちのテーブルを食い入るように見てからテーブルに着いていた。二人は白髪の人と髪の薄い方で、わたしをひいきにされているのは髪の薄い方の方だった。二人は向かいに座り、彼はわたしのすぐ背中越しに着席した。

「珍しい。久しぶりに夜、土川さんを見かけたよ」

 彼の声が聞こえてくる。わたしたちはその声を聴いて、こちらの声が漏れないようにさらに小声になっていった。慎二君は立ったままでいる訳にもいかず、

「先、隣の注文を聞いてくるね」

 と言って席を離れた。二人のお客さんはいつも決まったようにアイスコーヒーしか頼まない。片方がフレッシュなしだ。コーヒーだけで毎晩二時間も粘って帰っていく。年の頃はすでに五十歳は過ぎていよう。うちのお父さんが毎晩遅くまで働いてくるのと比べてやや時間を持て余しているようだ。慎二君は隣にアイスコーヒーを運んだあとで、改めてわたしたちのところへ注文を取りに来た。わたしはホットコーヒーを頼んでいた。みんながお祝いにと季節のシロノワールを頼んでくれる。四人いるから一ブロックずつ食べようということになる。わたしが、

「みんな、ありがとうね」

 というと、代表するような形で最年長の恭子さんが、

「堅苦しいことはなしだよ。これはわたしが出すからね。今夜は楽しみましょう」

 と言ってくれた。慎二君は注文を復唱すると、

「お皿は四枚お持ちしますね」

 と言って下がっていった。

 わたしは何か話さなければいけないと思ったものの、背後にお客様――それもひいきにしてくださっている――がいるため、今少し言葉を出すことがためらわれた。

「和江は良いね、可愛いから。あんなオジサマにまで好かれてしまって」

 遥は冷やかしているのか妬いているのかわからない言葉をかけてくる。

「まあ、そうは言いなさるな。遥だってそのうちごひいきができるってば」

 芽衣さんが慰めにも近い言葉をかけていく。

「遥は幼く見えるからちょっと不利かな。和江ちゃんは確かに物腰が柔らかいし肌が白いから、男性からは受けがいいのかもね」

 などと解説を受ける。

「遥は高校時分のイメージがまだ残っているんじゃないのかな。髪も染めたし、化粧をするようになってずいぶん大人になって来たよ」

 芽衣さんはそう励ましの言葉を入れる。わたしも決して背は高い方ではないのだけれど、遥はさらに小柄と来ている。そこも少し不利に働いているのかな、と思ってみる。不意に隣から、

「かわゆいなあ」

 という、小さな声が飛んでくる。

「ほら、隣で和江の噂してるよ。良いなあ」

 羨ましそうな声が漏れた。そのタイミングで飲み物が出てきた。

「シロノワールはもう少しお待ちください」

 元さんはそう言って下がっていく。

 シロノワールは西山さんが直々に持ってきてくださった。

「楽しそうね。和江ちゃん、お誕生日おめでとう。また、夜の部でも頑張ってね。期待してるわよ」

 そう言って下がってゆく。

 季節のシロノワールは安納芋テイストだった。

「芋姉ちゃんのわたしにはお似合いね」

 と言ったところ、

「謙遜しちゃって。お芋さんって健康に良いのよ。健康優良児の和江にピッタリだわ」

 芽衣さんが声を出す。

「栗より甘い十三里ってね。お芋さんを馬鹿にしちゃいけないよ」

 恭子さんは博識を見せてくる。

 隣ではこちらが楽しそうにしているのを聞きつけてか、彼の向かいに座っている方が、壁越しに覗いてきているという。

「ううん」

 彼の咳払いが聞こえたかと思うと、

「ちょっと、トイレに行って来るわ」

 という声がする。脇を通り過ぎながら、彼はわたしたちのテーブルを見ていく。

「しっかり見られてるね」

 芽衣さんが小声を出す。彼は止せばいいのにトイレから戻ってくるときにわたしたちのテーブルを正面に見た通路を通ってきた。視線が合ったわたしは軽く会釈が出ていた。彼が席に着いてから、

「今の見たでしょう」

 遥が言うと、

「そうね、あのプロ根性はさすがだわ。しっかりお客さんをつかんで離そうとしないんだから」

 と、芽衣さんは返した。遥は、

――そっちですか。

 と、苦笑いをしている。

「今の突っ込み、ポイント高いよ」

 恭子さんはそう笑っている。わたしはとっさに出てしまった自分の態度に戸惑いを覚えながら、どう反応してよいものやらと困惑した。隣からは、改めて、

「かわゆいんだから」

 と、さも鼻の下を伸ばしていよう言葉が漏れてくる。

「時に、和江は彼氏はいるんだっけ」

 芽衣さんが穿鑿して来る。

「えっ」

 と言ったきり、わたしは言葉にならなかった。わたしは未だバイトが楽しく、学園生活が楽しいばかりだったのだから。

「和江ちゃんは男の方でほかっておかないでしょう」

 そんなことを言われて、実際の自分の周りを見渡してみたが、告白されたことすらない身である。

「存外みんながけん制し合って声をかけられずにいたりして」

 芽衣さんはイケイケムードで追及して来る。わたしは恥ずかしくなって、白い頬を硬直させていた。

「そこで顔を赤らめられては周りは黙っていないよね」

 わたしは穴があったら入りたい思いだった。

「和江は良いなあ」

 遥はわたしの現実を知らないままでうらやんでいた。

 シロノワールは確かに甘かった。あの、安納芋独特の甘さが生地とマッチして口の中で溶けていくようだ。わたしは未だ食い気の方が勝った、幼さが残った娘だった。シロノワールの最後の一口を運んで、幸せな気分に浸っていると、

「その顔はなかなかできないよねえ。この、幸せ者」

 今日の芽衣さんはやけに絡んでくる。それも、今日がわたしの誕生日で楽しんでもらおうという演出だってことまでは、わたしに分かろうはずはなかった。

 腕時計を見てみると、既に二十一時を回っていた。現在はこの喫茶店の閉店時間は二十二時だ。二十歳になったというものの、あまり遅いとお父さんから小言を貰うのが目に見えていたので、

「それじゃあ、そろそろわたし帰らなくちゃ」

 と言って、席を立った。

「主役が帰ったらわたしたちはどうなるのよ」

 遥はまるでお酒が入っているかのように絡んでくる。

「そんなこと言っても……」

 わたしは正直困った。それでも声を振り切ってレジのところまで歩いていくと、待ち構えたように元さんがいて、

「今、現金を数えているからもう少し遊んでいきなよ」

 と言って来る。わたしは思わずみんなの方を振り向いた。みんな揃ってウエルカムしている。わたしは愛想笑いをしながらテーブルまで戻ると、

「そんなことされたら帰れないよ」

 と、吐露した。

「帰る必要ないんじゃないの、まだ」

 皆は声をそろえてそう言った。仕方なしにわたしはオーダーストップまでいようと思う。それでも、帰らなければと思うと座っている腰が軽い。

「お客様より先に帰っては失礼かな」

 恭子さんまでノリでそういう。その頃になると、彼たちの方でも話が盛り上がってきたようで、次第に声が大きくなってきている。何やら難しそうな話が聞こえてくる。ニーチェがどうとかいう声がしているところを見ると、哲学の話でもしているのだろうか。わたしには縁遠い話をされて、少し気が引けたのと同時に、その物知りさに感心していた。わたしは次第に背中越しにそば耳を立てていった。そんな様子は女が寄ればすぐにバレてしまう。三人は、

「和江ったら、今は彼氏のことに夢中ね」

 と、三人でひそひそ話をされる始末。それでも、鈍いわたしはそれには無頓着だった。

「オーダーストップのお時間ですが」

 慎二君が彼のテーブルにそう告げるので、

「じゃあ、わたしはこれで」

 と、もう一度席を立つ。

「帰れるものなら帰って御覧なさい」

 わたしの背中越しに芽衣さんが言うので、わたしは磁石に吸い付けられるように席に戻っていた。

「玄関くぐるのが怖いな」

 と、つぶやいてみると、

「彼氏に送ってもらったら。弁解してくれると思うよ」

 遥はそんな恐ろしいことをいう。あとわずかで閉店となってみると、さすがのわたしも覚悟を決めようと思った。それでも、

「帰らないと」

 と、言葉を連呼していた。

 いよいよ蛍の光は流れ始めた。背中越しに彼の友だちが、

「誘ってみればいいじゃん」

 と言っている。彼は少し照れ笑いを見せながら伝票を持ったようだった。彼に続いて、友だちの方も脇を通っていった。わたしは本当に誘われたならばどうしようと気をもんだが、さすがにそれはなかった。今週木曜日からはまた夜の部でのお仕事が入る。お父さんの心配は増えるのだろうが、わたしとしては青春を謳歌するのはまさしくこれからだと思っている。

     令和元年十月二十七日(日) 了

     にわとり 二〇四号

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