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各務原物語(抄)

雪の舞う夜

 愛知県犬山市と岐阜県各務原市との県境には、木曽川に二本の橋がかかっている。一本は堰の上を通るライン大橋、そしてもう一本は名鉄電車と自動車が共有するという珍しい橋、犬山橋である。ここでは今、平行して自動車専用橋の建設が進められている。その各務原市側の付け根のところにひと組のカップルがいる。

「ふっつ、寒い寒い。こんな日はラーメンに限るな」

 車から降りた啓志はそう言って、古びた小さなラーメン屋に急ぐ。

「フルコースとまでは言わないけど、もう少し考えてもらえないかなあ」

 デートコースを締めくくるのが毎度毎度の「桃太郎ラーメン」だ。舞衣子でなくても愚痴の一つも言いたくなろう。尤も今日は大晦日。それも深夜に差しかかる時間帯だ。他に開いている店といえば、この辺りではファミリーレストランくらいであろう。この店の薄暗いところが非衛生的に思える舞衣子には、できれば避けてもらいたいところだった。ただ、確かにラーメンの味は良い。それが今まで大した不平も言わずに来た理由であったかもしれない。啓志はそれでも、

「この年季が入った店も新橋ができたらお別れ何だぞ。ラーメンだって良く拝んで食うべきだな」

 と、舞衣子の気持ちをまるで気にしていないようなそぶりだ。舞衣子は仕方なく「ええ」と、口裏を合わせた。

「おっちゃん、ラーメン二つね」

「あいよ」

 威勢のいい声が響く。店内を見渡すと長いすのカウンターには客が五人、二人が座るには少々狭い。テーブルの方も埋まっていてしばらくは空きそうにない。

「お金、先払いだったよね」

「はい、ちょうど千円ね」

 啓志が財布を探していると、舞衣子が腕を引っ張った。

「空いてないじゃないの。どうするつもり?」

 暗に移動しようと言っている。啓志は、

「いっそのこと外で食うか。雨が降っている訳でもあるまいに」

 と言いながら、夏場に使われるテラスを見やった。外のテラスにはテーブルが五つ。もちろんこんなに寒い日にテラスで食べている客はいない。犬山城のライトアップも十時に終わっている。

「寒くないかしら」

 舞衣子の心配は当たり前のことだ。でも啓志は、

「舞衣子はコート着てるんだから大丈夫っしょ」

 と、意に介さない。しばらくすると麺が茹で上がり、

「はい、お待ち」

 と、ラーメンが二つ出てくる。湯気が上がって良い匂いがする。結局席は空いていない。舞衣子も仕方なしにテラスで食べることに同意し、二人はどんぶりを持って外へ出た。スポットライトが当たっている。舞衣子は黒の革のコートにタイトスカート。ストッキングを履いているのだから寒いといっても知れていよう。

 外に出てみると、真正面に造りかけの新犬山橋が、橋板がもう一つ乗るのを待っている。県という境を越えて市制を敷こうとしたことがある鵜沼と犬山が、新たにつながれていこうとする姿がそこにくっきりと見て取れる。平成の渡し舟は人の流れを変えようとしている。

「この橋ができればお前んとこ行くのにも便利になるからなあ」

 啓志が汁をすすってからそう言った。啓志の家は犬山羽黒の昔ながらの集落、舞衣子が鵜沼緑苑の高級住宅街。その行き来には、犬山橋とその先にある名鉄とJRの踏切の二か所で列車とかち合うため、普段から渋滞に巻き込まれて嫌な思いをしているのである。

 ラーメンをすすりながら、

「寒いか」

 啓志は思い出したように言う。

「暖かい訳ないでしょう」

「風ないし、それほどでもないんじゃないかな」

 啓志は申し訳なさそうに笑った。

「京都、どうだった。冬の京都ってのも良いもんだろう」

 二人は今日、日帰りで京都へ行き、主に嵯峨野を回って来た。ちょっと離れた観光地へ、時期的にも静かなところへ行って来たつもりだった。でも、京都の街は大晦日の今日も人通りが絶えることはなかった。舞衣子は、

「行く人何か少ないって思ったんだけどなあ」

 と、少し残念そうだ。

「渋滞さえなければ良い旅だったんだけど」

 啓志はまた違った観点から残念がった。

「それ言うんだったらこんな時期選ぶ方がどうかしてるわよ」

 この日に合わせて卒業論文の提出を急いだ身としてはそんなことばも出てくる。学生としては尤もな意見だが、啓志は忙しい社会人の選択として今日の日を選んだのだった。付き合い始めてから半年足らず、日ごろ日曜日に名古屋へ出ることの多い二人が初めて揃って愛知、岐阜両県を離れた。舞衣子が卒業する前に一度出かけようというのが旅の趣旨だった。尤も大晦日に遠出しようというのは少し考えものだったが。

「まあいい。この辺もこんな時間帯には渋滞ないもんな。それで良しにするか。そう言やあ今日は遅いな」

 啓志は、いつもと違って犬山城のライトアップが消えていることにようやく気が付いた。

「やっと時間のこと気にしてくれたね。家って門限あるのよ」

 今まで帰りの時間を意識したことのなかった啓志は戸惑った。時計を見ながら、

「十時か、それとも十一時か」

 と慌てる。時間は十一時を回ったところだった。舞衣子は、

「それが十時なのよ」

 余り慌てた様子もなく答えた。それでも、舞衣子から父親の厳しさを聞いている啓志は狼狽した。少し覚悟を決めるのに時間を要したらしかったが、啓志が、

「事情を話して俺が謝るから」

 と言い出した。舞衣子は陰でこっそり舌を出して、

「もういいわよ、今日は大晦日何だし」

 そう取りなした。それもそのはず、今日は反対する父を押し切って、帰りに初詣でに行って来ると告げていたからだった。ある意味気の利かない啓志をからかっているのである。話の主導権を得た舞衣子は饒舌になった。嵯峨野は京の外れだけあって趣深かっただの、大覚寺に参って信仰を新たにしただの、ことばの真偽はともかくとして、思い付くことはすべて口にしているといった感じだった。一方の啓志は舞衣子を門限までに送り届けることができなかったとの思いからそれをうわの空で聞いていた。どうやって舞衣子を送り届けるかだけに意識を集中していたのである。お寺の話を出して暗に初詣でに行くことを催促していた舞衣子に取っては歯がゆいばかりだった。でも、自分から初詣でに行こうとは切り出せない。舞衣子は仕方なしに、

「今日で今年も終わっちゃうのね」

 と呟いて、啓志の顔を覗き込んだ。舞衣子の目つきに力が入っている様子を伺い、啓志は何か言わなければいけないと思い、

「そういやあ、舞衣子正月の予定、何かあったか」

 と尋ねた。思惑通り啓志が正月の話題を出してきたので、舞衣子は穏やかな顔つきになって、

「いつも寝正月何だけどどうして?」

 と答えた。啓志はプログラマー。日ごろは人が休んでいるときこそ仕事がある。だから今までは、休息を取れるときはと寝正月を決め込んでいた。それでもさすがに初詣でを舞衣子と一緒にという気持ちは湧いてきたものと見えて、

「いや、初詣で何か行くのかなって思ってさ」

 と、切り出した。

「わたしの着物姿期待してるんでしょう。エッチ」

 舞衣子は挑発的なことを言う。啓志の顔は心外だと言わんばかりだ。

「そんなことないよ。じゃあ今日って手もある。今日これからはどうさ。それなら着物は関係ない」

 乗せられているとも知らない啓志はそう語気を荒げた。舞衣子はその誘いに満足した。それでも、

「門限破ってるのに初詣で何て行けないわ」

 と、もったいぶる。啓志も男だ。言い出したことを引っ込めることができないらしく、

「そう言うなって。卒論の優でも祈願に行けばいいじゃんか」

 と、翻意を促す。舞衣子は聞いていないとばかりに箸を進める。

「仕事が順調に行くようにお守りもらうとか」

 それから啓志は初詣でに行く理由を思い付くだけあげつらった。それでも舞衣子は行くとは言わなかった。攻め手を失った啓志はどんぶりを持って一気に汁をすすった。

「ああ、いつ食べてもここのラーメンはうまい。舞衣子まだ半分も食べてないじゃんか。何なら手伝うけど」

 糸口をつかもうとしている啓志はいつもより口数が多くなっている。舞衣子は、

「大きなお世話よ」

 と言って視線を外した。二人の間に沈黙が漂った。舞衣子はちょっと言い過ぎたかなあと反省した。啓志は何も言わずに、ただ闇を見つめている。間が持たない舞衣子はただ麺を口に運んだ。長くなった沈黙に、啓志の方から何か話しかけてはもらえないかと待った。舞衣子は自分が作った沈黙を自分では破れなかった。一人にされた啓志は、

「雨は夜更け過ぎに

 雪へと変わるだろう

 ……」

 と、独り言を呟くように歌い出した。きっかけをもらった舞衣子は、

「それってクリスマスイヴの歌じゃないの」

 と、沈黙を破った。

「いや、今日降るようなこと言ってたんでね」

 啓志は雪の降る夜をともにするのも趣があろうと思っている。まだ舞衣子を初詣でに誘うのをあきらめてはいない。

 京都は降っていなかった。関ヶ原もちらほらだった。ただ、雲行きは怪しかった。夜空を眺めても現在の雲の様子は分からなかったが、この土地も雪が降ってもおかしくない状況ではあった。もう冷めて、それほど熱いラーメンではなかったが、「ふーっつ」と冷ますように息を吹きかけると、暮れの寒気が白い直線を描いては散逸していく。雪の話をされたためか、舞衣子は肌に寒いものを感じた。ラーメンを食べているのにどうして……、ふと思う。隣には歌いながら未完成の橋に目をやった切りの啓志がいる。そう、二人の間柄はまだ未完成。橋は舞衣子にその点を教えているようでもあった。

「あのっつ」

 舞衣子は思わず初詣でに連れて行ってと言いかけた。

「あのっつ、どんぶり返してくるね」

 舞衣子はかろうじてそう言い直して一度店の中へ消えた。今日、このまま別れてしまうには惜しいものがある。どうしようか。そんな思いで啓志のもとへ戻る。するとどうだろう、雪がはらはらと落ち始めているではないか。

「ちょうど良い具合になって来たな。こんな雪の中での初詣でもおつなものだろう」

「でも……」

 そう言っているうちに除夜の鐘が鳴り始めた。

「ほら、お寺さんの方でも呼んでることだし」

 舞衣子はそのことばに潮時を感じた。京都に誘われたとき、二人の間に一つの転機が来たのだと思った。今日の旅はそれがどういう形でやって来るかを確かめるための旅でもあった。一日にあったことを思い浮かべながら、「ええ」と言おうと思った。しかし、降り始めた雪が次第に強くなり、闇を覆い辺り一面に白いヴェールが舞い降りた。

「これじゃあ帰った方が良さそうね」

 舞衣子は残念そうに言った。啓志も、

「ちぇっつ、天まで舞衣子の見方しやがって」

 と悔しがった。木曽川に吸い込まれていく雪を眺めているうちに舞衣子は一つのことを思い付いた。そして、

「ちょっと家へ電話してくる」

 と、そこの公衆電話に向かった。一人にされた啓志は舞衣子が自分の提案にしたがってくれなかったことを残念がった。舞衣子はどうして初詣で行きを拒んだのか。門限だけの問題なのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら雪が舞うのを眺めている。公衆電話はそれほど遠くにある訳ではない。帰宅を告げる電話にしては時間がやけに長いんだなあと思った。それに電話をかけるのならば啓志は携帯電話を持っているのだから。少しいらいらしたところへ、

「お待たせ」

 と、舞衣子は帰って来た。啓志はつい「ああ」と、ぶっきらぼうになってしまった。

「どうしたの。送ってくれるよね」

 舞衣子が言うのに、

「送り狼になっちゃおうかな」

 と、ついいつもにないことばが漏れる。舞衣子は、

「ミイラ取りにならないでね」

 と言ってほほえんだ。啓志は仕方ないとばかりに「はいはい」と言いながら立ち上がった。二人は駐車場でスターレットに乗り込んだ。

「今日だけどなあ」

「楽しかったわよ。ありがとう」

 舞衣子に楽しかったと言われた啓志は何となくほっとしてエンジンをかけた。

 最終列車を一本残しただけの踏切をスムーズに抜けて、十分ばかりで車は舞衣子の家に到着した。家にはまだ明かりがあった。

「ありがとう。ちょっと寄っていかない」

 予想もしていなかったことばを聞いて、啓志は、

「だって真夜中だぞ」

 と、声を潜めた。

「だからちょっと」

「お前んち、本当に門限あるんだろうな」

 と、いぶかしがった。舞衣子は姿勢を正して言った。

「だから、父に会って欲しいの」

 犬山橋は、今年の初めを雪で飾った。できつつある新犬山橋は、竣工時には雪に見舞われるだろうか。不意にそんなことを思わせる。新しい橋は確実に人の流れを変えていくようである。


  (「別冊にわとり」二号 九九年九月)

  (文芸同人誌「弦」七十六号発表作品 〇四年十二月)

 (平成二十一年(西暦二〇〇九年)十一月十一日最終稿了)

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