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『闇の左手』アーシュラ・クローバー・ル=グウィン (1969)

ル=グウィンの出世作であり、フェミニズムSFの代表作にして、ネビュラ賞・ヒューゴー賞のダブルクラウン…この本につく様々な修飾語に惹かれて手に取ったが、この作品は重厚で、それらの飾りはあくまで飾りでしかなかった。そして自分がいかに既存の社会的先入観を有しているか向き合わざるを得ない話で、感性が鈍化していると感じる私をなお揺さぶってくれ、小説家としてなんと偉大な人なのだろうと感服する作品となった。

1. ゲセン人の両性具有、「女性」

物語の舞台である惑星<冬>/ゲセンに住むゲセン人は両性具有である。月に一度ケメルと呼ばれる発情期を迎えると、相手のパートナー次第で男性にも女性にもなれる体を持ち、性差という発想がない。むしろ性が固定されている地球の人類に対しては、ケメルが一年中ある倒錯者であるという…
7章「性の問題」というタイトルの第一次ゲセン調査隊の実地調査メモにて、この両性具有社会についての考察が地球人の目線(といってよいと思う)から提示されている。

…"出産にしばりつけられる”義務を免れないという事実は、ここでは、よその世界の女性のように完全に”しばりつけられる”ことがないということだー心理的にも肉体的にも。つまり重荷も特権も、すべての人がほぼ同等に分かち与えられる。すべての人が同等の危険、同等の選択の機会をもつ…(p.122-123)

ゲセン人は誰しもが出産・母親になる可能性を持っており、その点において平等なのだ。とはいえ歴然として自分の身体にある性別の感覚を持つとき、ゲセン人の、そしてハイン人(地球の人類)の困惑を持つ。「とはいえ両性具有/性が固定されている身体とは、一体感覚的にはどのようなものなのだろう?」エストラーベンが理解しているように、私もゲセン人の身体的構造について見たことはないけれど理解しているつもりなので、そういうゲセン/ハイン人両方の感覚に読みながら陥ることがあった。

アイ「いやいや、むろんちがう種族ではない。しかしその違いが非常に重要なのですよ。われわれの人生においてもっとも重要なこと、もっとも重大な要素の一つは、男性に生まれるか女性に生まれるかということです。ほとんどの社会においてその性が、その人の将来の可能性や行動や外観や倫理や態度などー ほとんどあらゆることを決定するのです。語法も。衣服も。食物すら…」
ハルス「すると平等は普遍の法則ではないのですね?彼らは知能的に劣っているのですか?」
アイ「さあどうだろう。あまり数学者とか作曲家とか発明家、哲学者などにはなりませんね。かといって彼らだが愚かだというのではない。体は筋肉質ではないが男性より忍耐力はややまさっている。心理学的にはー」 (p.289-290)

性別により"ほとんどあらゆること"が決定されていることについて、昨今可視化は進んでいると思うのだが、一方で自分の中にある規範があたかもそれが自然の理だと囁いてくるし、それに従っている自分もいる。表面的には私はこの"男性社会"の中でも男性と対等に働く"おとこ女"なのであるが、そんな私でも女性であることに引け目を感じている。もちろん性別に関係なく、個人が社会の中で生きづらさを持つことは当たり前に起きることなのだが。それでも女性性を意識しないで生きていくことが全くと言っていいほどないのは、前述したように「歴然として自分の身体にある性別の感覚を持つ」からであって、社会は全く関係ないのだろうか?いやそうであったなら「男の子みたいね」という誉め言葉(!)を母親から何度も賜ることはなかったはずだ。
ル=グウィンに一番最初に触れたのが『ゲド戦記』なのだが、幼心に”壮大なファンタジーは男性作家が作り出すもの”という先入観があったためか(子供が無意識にそう思うこの日本社会はなんなのだろうか!)、ル=グウィンを女性作家と認識することがほとんどない。その後遺症か、『闇の左手』を読んでいても、女性の僻みなのではないか?と一瞬でも思うことがなく、ある意味"男性”もこういうなら、本当にこの社会は平等ではないと思って「よい」のだと、一体私は誰に許しをこうているのか?なぜ許しをこわなくてはいけないのか?と自分の発想に半ば呆れながら読んでいた…

2. 友情/愛

なにはともあれ、そういった地球人の問題を一面の雪原の下にさらしながら、この本は一方で友情の物語であり愛の物語である。ハイン人で、エクーメン(人類の連合体)の代表として、惑星<冬>/ゲセンに来ているゲンリ―・アイ(GENLY AI)と、ゲセンの一つの国・カルハイドの元宰相エストラーベン(本名セレム・ハルス・レム・イル・エストラーベン)の、文化や種族を超えた友情/愛の物語。

最初は「シフグレソル」という"文化の壁"に隔たれていた二人が、極限の旅の中でゆっくりと、しっかりと友情を育む様子がとても好きだ。お互いへの尊敬があり、そこに生まれる信頼のなんと尊いことだろう。

ゲセンで食べたいちばんおいしいものはいつもあなたといっしょに食べていますね、エストラーベン (p.262)

あえて平仮名を多用した翻訳は、寒さに凍えて口調がゆっくりになり、子供のような素直さで語るゲンリ―・アイの心からの親しみがにじみ出ているように感じる。

「わたしの名はゲンリ―・アイですよ」
「それは知っていますよ。しかし、あなただってわたしの領地の名を使っている」
「わたしもなんとお呼びしてよいやらわからない」
「ハルス」…
「おやすみ、アイ」と異星人が言った、そしてもう一人の異星人が言った。「おやすみ、ハルス」(p.263-4)

この15章「氷原へ」という章で育まれる二人の友情/愛、ニュアンス的には"友情"、が美しく、また恋の始まりをのぞき見しているかのような恥ずかしさがある。ゲセン人であるエストラーベンとの"友情"は地球での"友情"であり"性愛"であり、どちらか一方であることはないためだが、あくまでエストラーベンを指す代名詞は「彼/he」であり、これが「彼女/she」であれば無意識的に広がるイメージは全く異なっていたのだろう!なんということだ本当に…
短編集『風の十二方位』に収録されている「冬の王」ではゲセン人は全て女性代名詞が用いられている。"彼女"で語られる若きアルガーベン17世のイメージは、私の中では細身で色白で美しい、いわゆる女性的、あるいは中性的。一方で『闇の左手』のアルガーベン王は背が低く小太りな、「裸の王様」に出てくるような男性像なのだ…言葉の支配力の強さから全く脱せていない自分…
その中でエストラーベンのイメージは、どちらかといえば男性寄りであり、

アーチの要石を私は埋めねばならない(p.354)

とゲンリ―・アイが言う時、そこに固い"友情"絆を見るのだ。エストラーベンのイメージが女性寄りであった場合、この感情は想起されるのだろうか?男女のイメージがそこにあった時、"友情"よりも"愛"の影を私は与えてしまうのではないだろうか。
この自分の思考の向かう道を見つめなおすのは改めてショックだ。男性の同性愛/BL作品も好んで読むし、現社会のジェンダー問題に一定の関心を払っているとも思っているし、それでもなおこの感情が立ち上がる自分の固定観念とは…

3. 神話・伝承

この物語の魅力の一つに、現在の視点と、神話・伝承といった時間超越的な視点が交互に紡がれていくことがある。神話・伝承を読んでいくと、ケメルの誓いの話が多い。定義は先に引用した第一次ゲセン調査隊の実地調査メモに詳しい。

…これ(ケメルの誓い; カルハイド語・オスキヨメル)はどうみても一夫一妻制度である。法律的身分ではないが、社会的倫理的には古来からさかんな風習である。…離婚はあるが、離婚後あるいはパートナーの死後、再婚はしない。ケメルの誓いは一生に一度しかできない (p.121)

兄弟間(ゲセン人の代名詞はheなのだ)で子供を持つことは禁止されていないが、子供を生んだのちは別れなければならないのだが、理由はよくわからない。

エルヘンラングの歴史学問所の子文書におさめられていた北カルハイドの<炉辺夜話>のサウンドテープ集より。語り手は姓名不詳。アルガーベン八世の治世下に収録
「…当時は今と変わらず、同じ両親の血をひいた兄弟は、どちらかが子供を生むまではケメルの誓いを守ることが許されていましたが、子供を生んだのちには別れねばなりませんでした。その後は死ぬまでケメルを誓うことは許されなかったのです。ところがこの二人は禁忌を犯しました…」(p.35)

隣国オルゴレインに伝わる創世伝説にも兄弟神により、人と国が誕生している。

…はじめに目ざめたのはエドンデュラスだった…三十六人まで殺した…エドンデュラスは兄弟たちの凍った死体を積み上げて家を築き、その中で最後の者が戻ってくるのを待った…「彼は燃えている!燃えている!」すると最後の弟はその声を聞きつけ死体の家の中に入っていきエドンデュラスと交わった。この二人から人の国が生まれた、エドンデュラスの肉から、エドンデュラスの子宮から。父親となった弟の名は伝わっていない… (p.294)

兄弟神というと、アチュアンの墓所が思い出される…

そしてもう一つ、物語の序盤で語られ、最後にはわかるだろうかとソワソワしていたエストラーベンの言葉がある。

…あれはいつわりの誓い、二つ目の誓いだ。おまえはそれを知っていたのではないか、いまも知っているはずだ。わたしがたてたただ一度のまことの誓いは、言葉にして語られることなく、語ることもできなかったのだ。わたしが誓いをたてた相手は死に、約束はとうの昔に破られた… (p.100-101)

エストラーベンにはアシェとの間に二人の子供がおり、二人ともアシェが産んだと書かれている。アシェに対して愛情はあるように見える一方で、エストラーベンには「ただ一度のまことの誓い」をした相手がいるという。一生に一度だけ行うことができる神聖的な誓いが世に存在していることがまず、とても羨ましい…笑

いつも気丈なエストラーベンであるが、一度だけ目に見えて狼狽したことがある。それは心話でアイが話しかけた声が、14年前に死んだ実の兄・アレクの声で聞こえたという時だ。アイに語る兄の記憶は説明的で平坦だ。実の兄、アレク・ハルス・レム・イル・エストラーベン、エストレの領主になるはずで、14年前に死んだ人物。その声で語られる時、エストラーベンは恐怖と満足とを感じていたらしい。

暗やみの中で彼は得体のしれぬ恐怖の声をあげたが、かすかな満足の響きが感じられた(p.312)

また、アレク、セレムといえば、第9章「叛逆者エストラーベン」で語られる民話そのままではないのか?という錯覚を覚える。

若様は申されました。「わたしはエストレのアレク」
相手のお方も申されました。「わたしはストクのセレム」…
「わたしはたちは宿命の敵です」とエストラーベンは申されました。「わたしはあなたとケメルの誓いを結びたい」
「わたしもです」とそのお方も申されて、お二方はケメルの誓いを結ばれました…(p.160)

そしてあの眩しすぎる雪原を滑り降りたそのあとで、

…ただ私の愛に答えるかのように、意識のうすれていくなかで、混沌とした心のうずまきをかきわけて、もの言わぬ舌で一度だけはっきりと「アレク!」とさけんだ。それっきりだった(p.348)

アイからのの心話がずっと死んだ実の兄の声に聞こえていて、それはハルスにどういう感情を引き起こしていたのだろうか。ハルスは誠意をもって彼の日記に心話のことをほのめかしさえしていないから、真相は全く分からない。ただアイとの友情はそれとして、アレクという兄への気持ちはそれとしてあると推測する。

老領主は少年を見、そして私を見た。「この子はソルベ・ハルスです」と彼は言った。「エストレの世継ぎ、わたしの息子の息子」
ここでは近親相姦のタブーはない、私はそのことをよく知っていた。ただ地球人である私には、その奇妙さが、この暗い感じの武骨な田舎の少年にわが友の魂の片鱗をかいま見たときの奇妙な感じが私をしばらく沈黙させた(p.367)

やはり、というべきか、ハルスのケメルの誓いの相手は彼の兄であるアレクで、このソルベ・ハルスという子供はアレクとハルスの子供なのである…!今まで章の合間で語られてきた神話・伝承のイメージと、アレクとハルスのイメージは重なり、もはや伝承の一つだったのではないかと思うほどに完成している。14年前にどうしてアレクは死んだのか、二人はどうやってケメルの誓いをたてようとしたのかはわからない、だがきっと数百年後には、新しい「叛逆者エストラーベン」の話として、東カルハイドの民話になっているのだと確信できる。遠い神話や伝承には、このような血肉が通った話が隠れていて、一方でまた全く関係のない話が混じってもいるのだろう。ル=グウィン、素晴らしい…

4. 闇の左手

ハルスの兄アレクの物語における役割・存在で大きいもう一つは、アレクが死の直前にハルスに遺した文の中で、トルメルの歌を記していたということだろう。

光は暗闇の左手(ゆんで)
暗闇は光の右手(めて)。
二つはひとつ、生と死と、
ともに横たわり、
さながらにケメルの伴侶、
さながらに合わせし双手、
さながらに因‐果のごと。(p.288)

ル=グウィンの代表的な思想たる、物事の表裏の一体さ (ゲドの言う、手の裏表)がここにある。題名の「闇の左手」とは光のことであり、そして二つは一つのあくまで片割れなのだと思う。両方が揃って初めて一になる、とてもしっくりくる思想。ゲセン人の両性具有とは、ある意味既に一であり、そのまま自分で生殖していたら完全なる一のはずだ。それでもゲセン人の両性具有は一時的なもので、ケメルの時期には男/女どちらかになり、そうしてようやく”二つは一つ”を体現することができる。なんというか人間の矛盾というか、不完全でかつ全というか、そういったものを感じた。言語化にはもう少し時間がかかるので、一旦ここで筆をおく。

原語である英語では、この詩は以下のとおり

Light is the left hand of darkness
and darkness the right hand of light.
Two are one, life and death, lying
together like lovers in kemmer,
like hands joined together,
like the end and the way.

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