流町へようこそ 5
ギンって、猫のことだよな。
ひとり取り残され、他にあてもないので仕方なく猫を探し始める。確かさっき、あの家のあたりで消えたはずだ。私は猫が入っていった塀の隙間に近づき、覗きこむ。真っ暗で奥が見えない。どこに繋がっているんだろうか。アイと話している間に遠くに行っていなければいいが。
ずん、と地面が揺れる。地震か? と思ったらもう一回、ずーん、とさっきよりも強い揺れが来た。体勢を低く、這いつくばるようにして塀から離れる。
黒いアスファルトの道が、さらに濃い暗い影で塗りつぶされた。私も飲みこまれ、空を見上げる。
最初は雲かと思った。巨大な雨雲が、空の半分を覆っているのかと。雲間から黄色く光る満月が見えた。あんなところに月なんて出ていたっけ。その黄色い円は、きゅっと広がって、瞬きした。
灰色の前足がずおおおっと上げられ、下ろされる。ずーん。立っていられない。開いた口もふさがらない。
猫のギンは、街中でそびえ立つ高層ビルと同じくらいの大きさになっていた。尻餅をついた私を見下ろしている。口にはかすかに笑みをたたえているようで、よりいっそう貫禄が増していた。その目が呆れたような眼差しを向けてくる。お前は何をやっているのか。
「あ、あの、すいません」と叫ぶ私の声は震えていた。「帰る道を教えてほしいんですけど」
ギンはつまらなさそうに目を細めると、なー、と鳴いた。サイズに見合わない、普通の猫並みの声だった。
それが合図だったのか、周りの家々が、自販機が、電柱が、標識が、信号機が、ガードレールまでもが、波打つようにして、いっせいに立ち上がった。そして、ギンの立つ方角へ走り始めた。ざざざ、ざざざ、と風が吹き抜けるような音と共に、地面に座りこんだままの私をよけながら。
気がつくと私は、あの狭い公園で立っていた。
スマホを確認する。時間は会社を出てから三十分前後。地図アプリは見慣れた地域を表示し、現在地のアイコンは区画の真ん中をさしている。
夢でも見ていたんだろうか。
そういえば、とジャケットの胸元に手を突っこむ。しかし、内ポケットは空っぽだった。おっさんに不似合いな玩具など、最初から入っていなかったかのように。
背後でがさっと物音がして振り向く。そこには灰色の毛がぼさぼさに乱れた老猫がいた。しばらくこちらを見つめていたが、ぷいと顔を背け、のっそりと歩いて茂みに隠れた。
私は慌てて公園を出ると、逃げるようにさっきとは逆方向に進んだ。そして、いつもと同じ道をたどって、変わらぬ日常を一つ一つなぞりながら帰った。
*
「……とまあ、こんなことがあったんだよ」
私は夕食のあとのお茶をすする。
「ふうん……でも、何も残ってないんだよね」
「ああ、残念ながら。あの玩具も渡してしまったからね」
「美少女戦士に?」
「美少女戦士に」
ふふふ、と妻が笑う。
「流町、ね」
「信じられないだろ? 自分でも信じられない」
「私は信じるけど」
思いがけない答えに、あ、そうなの? と妙な相槌を打ってしまう。
「でもさ、あなたがその町に行ったことにも、何か意味があるのかな」
「どういうこと?」
「もしかしたら、その経験もまた予知なのかも」
「まさか。考えすぎだよ」
そうかなあ、と言う途中で、彼女は「へあ」とちょっと間の抜けた声をあげた。それから、くしっ、とくしゃみをする。
「一回は良い噂」と私は言った。
*
その数年後、私は再び美少女戦士に出会い、道具を渡すことになる。目をきらきらさせている自分の娘を見ながら、ああ、アイには悪いことをしたな、などとしんみりするのは、また別のお話。
*『流町へようこそ』第一部 スズキさんの場合
終わりです
第二部へ続く?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?