流町へようこそ!! 5

 ここまでは、私が知るはずのない物語だ。

*

「で、」とアイちゃんは言う。夕焼け色に沈んだ流町の真ん中、赤い点滅信号の下で。

「名前は、何ていうんだ?」

 息を飲む。町が大きな両手を伸ばして、左右の親指と人差し指で、私の頭を摘まんでいる。びりびりとやぶって、真っ二つにしてしまうために。それは私が望んだことだ。今も私の一つの面である、モモイが。
 モモイ、と名乗る声が聞こえた。やぶれて半分になった、私の頭の片割れから。彼女は嬉しそうに微笑みながら、向こうのアイちゃんとギンと一緒に歩いていった。残された私はその場に立ち尽くし、見送るしかない。
 こちらのアイちゃんが私の視線に気づいて、後ろを気にするようなそぶりを見せる。アイちゃんに彼らは見えていない。私にだって本当は見えていない。今ここにいるのは、モモイではなく、私なのだから。

「私は、スズキ。スズキユカリ」

 アイちゃんは目を大きく見開いた。それから前のめりになって「ええーっ」と叫んだ。
「またスズキかよー! なんだよみんなスズキになっちまったのかよ」
 あはは、と私は笑う。「そうかもね」
 まじかよー、恨めしそうな目でこちらを見上げる。ごめんね、ハズレで、と内心で呟く。
「じゃあ、帰るのか?」とアイちゃんが尋ねる。そうだ、モモイにはないけれど、私には帰る場所がある。私は頷いて、手に持っていたスーパーのビニール袋を差し出す。
「これ、あげる」
 彼女は、一瞬何が起きたのかわからないみたいにまばたきを何度かしてから、それを受け取った。中を覗きこむ。
「なんだこれ?」
「カレーの材料」
 そして私はカレーについて説明する。アイちゃんは、「定食屋をやってるエムっておっさんがいるから、作ってもらおう」と言って笑った。
「ありがとな」
 ううん、とかぶりを降る。
「元気でね」
「おー。じゃーなー」
 彼女が手を振り、私も手を振り返す。自転車をぎしぎし言わせながら、来た道を帰っていく。その背中を見ながら私は想像する。アイちゃんが帰った先には、ずっと前からそこにいたみたいにモモイがいて、ビニール袋の中身を見てカレーを作りに行く。私とモモイは別々でしか存在できないけれど、アイちゃんは一人に戻れるんじゃないか。この町自体が、私のいる場所とは違うのだから。
 なー、という鳴き声が聞こえてそちらを向くと、暗くなり始めた通りにギンが立っていた。来たときと変わらない距離感。たぶん迎えに来たのだろう。私の口からふっと息が漏れて、じゃあ帰りますか、と言いかけたときだった。
 ギンはこちらをじっと見つめていたかと思うと、あろうことか、私に向かって笑ったのだ。まったく猫らしくない、達観した子どものように寂しげで、悟りを開いたお坊さんみたいに優しい表情だった。そしてそれは同時に、この世のものではない、底知れない不気味さを放っていた。
 やがて、猫の輪郭がぼやけ始めた。私が固まっている前で、ギンは町に溶けてしまった。ひどい耳鳴りと吐き気に襲われ、視界がぐわんぐわんと揺れる。アスファルトに膝をつき、自分の体が横たわるのを感じた。固い感触。まぶたを閉じる。

*

 眼が覚めたときに声をかけてくれていたおばあちゃんによると、私が気を失っていたのは、ほんの数分だったらしい。歩いていて急に倒れたからびっくりしたと言われた。目覚める直前にちょうど救急車を呼ぼうとしていたらしく、本当に大丈夫か、ちゃんと後で病院に行くんだよ、と何度も繰り返していた。実のところ気分は最低で、たぶん顔色も相当ひどかったと思うけど、大丈夫だからと答えて帰路についた。どうにか自宅にたどり着き、死んだように眠った。
 仕事から帰ってきた夫は、ベッドに潜りこんだままの私を見て、どうした、大丈夫か、と心配そうに言った。顔には疲れが滲んでいて、私はうわごとみたいに、ごめんね、カレー、作れなくて、とこぼした。そのままうとうとと眠りに落ち、次に起きると、おかゆができていた。私はおかゆを木さじで冷まして食べながら、流町に行ったことを話そうとして、やめた。

*

(もうちょっとだけ続きますよ)

#小説 #カレー #困ったときの気絶フェードアウト

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