流町へようこそ!! 1

 二つの顔を持つ女。
 地下鉄の中吊りに、最近話題の本のキャッチコピーが揺れている。
 実際、私たちの顔は二つどころじゃすまないだろう。居場所の分だけ、関係の数だけ顔がある。昔の粗いポリゴンみたいにでこぼこした多面体。そうじゃないといろいろやっていけない。
「モモイさん」
 はい、と返事をして、営業のカトウくんから見積とツール送信の依頼を受ける。彼が最近頑張っていて、売り上げを好調に伸ばしているおかげで、事務担当の私も自然と仕事が増えている。もともと細かいところが疎かになるのがたまに傷で、受注が増えた分だけ綻びも増える。送信はファックスなのかメールなのか。担当者の名前は。
 今日、納品ありますよね? と尋ねると、カトウくんは、あっ、という顔をして慌てて納品置き場へ走っていった。
「スケジュール帳か何かになったみたい」
「それか、お母さんだな」
「私は営業のお母さんじゃない!」
「事務職の真理かもしれない」
「やだよそんなの」
「まあ確かに、納品を忘れるのはどうかと思う」
「そうでしょ?」
 大きく頷きながら、夫の出張土産のひよこ饅頭に手を伸ばす。知ってる? ひよこは、ひよこで溺れる悪夢を見たひとが作ったんだよ、と夫が言う。前にも聞いたけどと思いながら、そうなんだ、ある意味復讐だね、と相槌を打つ。
「おやすみ」
 ベッドに潜ったあとで、本のキャッチコピーを思い出す。
 誰もが、いくつも、顔を持っている。私はもともと器用なほうじゃないけど、社会に馴染める程度には、使い分けられる。
 けれど、と私は小さくため息をつく。ときどき、それを負担に感じている自分がいるのだ。

*

 日曜日、久しぶりに昼間にスーパーに行った。夫は休日出勤だ。ショッピングに行く気力はなくて、でも部屋でごろごろしてるのも精神的によくない、というぐうたらの妥協案が、スーパーへ買い物だった。
 夕方みたいにレジが戦場と化すこともなく、のどかな雰囲気がただよっていた。じゃがいも、にんじん、たまねぎ、とかごに入れればもうメニューは決まっている。肉のグレードで悩む。一度ルーじゃない粉で作ってみたいけど、生来の面倒くさがりなのでなかなか一歩が踏み出せない。レジのおばちゃんと、いい天気ですねえそうですねえとか言い合ってから、エコバッグに食材をつめる。駐輪場で、中学生くらいの女の子たちがジュースを飲んでいるのが見える。
 エコバッグをぶらさげて帰る。ちょっと前後に揺らして、鼻唄なんか歌いながら。青空に豆粒みたいな白い飛行機。寒いなー、とひとりごちる。車の多い通りから、小さい川沿いの遊歩道へ。春夏は黄色や緑であふれかえる土手も、この季節は色あせてしまって寂しげだ。誰もいない小道を、冷たい風が吹きぬけていく。
 道のまんなかにぽつんと灰色い丸いものが落ちている。誰かファーの帽子でも落としたのかな、と思って近づくと、その毛玉はのそりと顔をあげた。猫だった。毛がぼさぼさで、貫禄のある、年老いた猫だ。
 やあ、と声をかけると、ちらりとこちらを見てすぐにそっぽを向いた。そっけないやつ。緩慢な動作で歩き出し、川と反対側の斜面をゆっくり下っていく。そこでふりかえって、またちらりとこちらを見る。なんという魅力的なアプローチか。
 私は猫を追って、細い路地へ下りた。川のせいで行き止まりになっている、近所のひとしか使わない道。猫は次の角を右に折れた。こんなところにまた細い道がある。猫は、歩道もあるのにわざわざ車道のまんなかを堂々と闊歩していく。まるで車が来ないことを知っているみたいに。
 両サイドにシャッターのおりたお店が並び始め、私はそこでようやく、こいつはおかしいぞ、と思う。それでも全然慌てていないのは、なんとなくこうなるような予感があったからだった。

(続きますよ)

#小説 #カレー

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