流町へようこそ? 本編

実行:

・朝は目覚ましより早く起き、鳴った瞬間に止める。

 シイナはシイナのことをシイナと呼ぶ。それはシイナが子どもじみているからではなく、単に自称語を使用しないと決めているからだ。

・ベッドは左足から降りる。

 欲求に抗うことは簡単だが、習慣に抗うことはできない。例えばシイナは大抵のことを左から始める。

・窓を開けて外の光を浴びる。

 外はよく晴れて、怠け者の太陽が眠そうに光っていた。

・破壊力の高い曲をかける。

 今日は White Stripes にしよう。姉のどっしりしたドラムと、弟の尖ったギターが雑居ビルの一室に轟く。シイナは直接的に関わりのないひとの名前を覚えない。

・朝食はトーストとコーヒー。

 これは十歳の頃に決めて以来ずっと続いている。シイナの母はこの癖をどうにか矯正しようと、トースト以外のあれこれを食べさせようとしたが、シイナは頑として折れなかった。朝はトーストとコーヒー、さもなくば飯抜きだ。

・お天気おねえさんの服装をチェックする。

 もちろんシイナはおねえさんの名前を知らない。今日はよく似合っているように思ったが、シイナは自分の服のセンスがよくないことを自覚しているので、本当によく似合っているかはわからない。

・洗濯はこだわりのコースがある。
・洗剤と柔軟剤は規定量より少なめにする。

 これは祖母から譲り受けた、継ぎ足し継ぎ足し使ってきた我が家に代々伝わる由緒正しき秘伝の洗剤、ではなく、単なる習慣である。

・歯を磨き、髭を剃り、髪を整える、必ずこの順番に行う。
・歯を磨いたら三十分は飲食をしない。

 歯磨き粉や整髪料を食べる習慣は持ち合わせていない。

・水筒にお茶を入れて持っていく。

 命の水と呼んで重宝している。していない。

・靴を左から履く。

 ちなみにシイナは左利きではない。

・鍵をかけたら必ず一度ノブを回す。
・鍵は鞄の決まったポケットに入れる。

 そういうのを神経症っていうのよ、と昔少しだけ一緒にいた意地悪な女の子にからかわれたことがある。シイナはその子の名前も覚えていない。

・歩くスピードは一定に保ち、走らない。

 気持ちのいい朝だった。寒いけれど、昨日よりは寒さも和らいだような気がする。シイナは冬の空気のつんと刺さる感覚が好きなので、暖かくなるのは少し寂しいけれど、寒さへの耐久性は高い方ではないので助かるといえば助かる。複雑な気分だ。
 シイナの住む「流町」は少し変わっている。様々な地域を移動する神出鬼没の町で、迷いこんだ人たちが気ままに暮らしている。流れ者たちの、流れる町。シイナは五年くらい前からここにいる。
 流町の軸である通りは無限ループしていて、シイナはそこを歩いていた。

・信号は点滅し始めたら渡らない。

 この町には信号は一つしかなく、ずっと赤で、絶えず点滅している。そういった場合は車に気をつけて渡ればよい。

・道路を横断するときは左、右、左と確認する。
・中道を通るときはできるだけ端を歩く。

 交通ルールを遵守するシイナである。

・横断歩道で歩いていいのは白線の部分だけで、少しでもはみ出すと死ぬ。
・マンホールは上に乗ると死ぬ。

 町には危険が多く潜んでいるのだ。注意を怠ってはならない。
 やがてシイナが働いているビルが見えてくる。

・ドアは静かに開け閉めする。
・エレベータではできるだけボタンの前に立って開く、閉じるを押す。

 年季の入ったエレベータは振動しながら上っていく。点検するひともいないから、いつ止まるかとひやひやしている。通勤も命がけである。

・仕事場に着いたらまずはトイレで手洗いとうがいをし、身なりを整える。

 仕事場はシイナの部屋の隣なのだが、そんなことは宇宙の果てから見れば実に些細な問題だ。

・パソコンとディスプレイの電源を入れる。
・ウェットティッシュで机を拭く。
・背もたれにもたれない。

 仕事はインターネットを介して行う。意外にも、この不可思議な町は外界から隔絶しているわけではない。ただ、外部に接続するためにはある一定の手順を踏む必要がある。今のところ手順を知るのはシイナただ一人なのだが、しかしそのことにいったい何の意味があるのか、シイナは知らない。シイナにできることは、せいぜい必要なものを発注したり、好きなサイトを巡回したり、ハッカーの真似事をしたりする程度である。

・意識して休憩をとる。

 シイナは伸びをして、眼鏡を拭いた。

・昼食は曜日で決まっている。

 基本的には定食屋「紅屋」の日替わりランチだが、週に二度、喫茶店みたいなバー「レッドリバー」でサンドイッチをいただく。
「いらっしゃいませ」
 ぱりっとしたシャツにベストをまとったバーテンダーのアール氏が、完璧なお辞儀で迎えてくれる。シイナは決まって一番奥の椅子に腰かける。すぐにコーヒーと、野菜ミックスサンドが並べられた。

・野菜をとる。

 シイナは野菜ミックスサンドが好きだ。

・好きなものは後に残す。

 特に、ミックスサンドのタマゴが大好きだ。だからシイナはツナきゅうり、トマトチーズ、ハムタマゴの順に食べる。サンドイッチはきっちりと切り揃えられた、規則正しい食べ物だ。それも好きな理由の一つだった。
「あ、シイさん、そういえば」とアール氏が思い出したように切り出す。
「昨日、新しい方にお会いしましたよ。モモイさんという、女性です」
 ふうん、とシイナは相槌を打った。

・昼も必ず歯を磨く。
・昼休み中に仮眠をとる。
・起きたらストレッチをする。

 軽く伸びをしてから、再びパソコンに向かう。いつ届くのかはっきりしない生活用品の発注を済ませる。そういえばジイさんがちりめん山椒が食べたいって言っていたっけ。エムさんからの発注書にはなんでいつも聞いたことのないスパイスが入ってるんだろう。大概、入荷しない。

・よほどのことがない限り仕事は定時に終える。
・パソコンとディスプレイの電源を消す。

 とはいえ、この町に迷いこんで以来、残業したことは一度もない。その代わり給料ももらってないんだけど。

・仕事帰りに寄り道する時間は一時間以内にする。
・週に一度は本屋に行く。

 古本屋「青山書房」に寄るのは水曜日と決めている。今日は火曜日なので、シイナは夕飯を食べに紅屋へ向かう。

・スーパーで消費期限を確認する。
・いくら安くても買いだめはしない。
・できるだけ旬のものを買う。
・マイバッグを常備する。

 この町にはスーパーがない。

・買い物するときは財布の小銭を減らすように払う。

 信じられないことに、通貨も必要ない。誰が食費や光熱費を払っているのか、水道や電気やガスはどうしているのか。おそらく、この町の住民にそれを知る者はいない。シイナただ一人を除いて。

・季節の移り変わりや月の満ち欠けを意識する。
・星座や星の名前を覚える。

 外はすっかり暗くなっていた。南東の空にオリオンが上っている。そろそろ冬も終わりだ。まだ風は冷たいけれど。
 紅屋の戸をがらがらと開ける。らっしゃい、とカウンターの奥からエムさんの声が飛ぶ。
「あっ、シイだ!」

・帰ったら手洗い、うがいをする。

 犬のように尻尾を振るアイの脇を抜け、シイナは洗面所に向かう。丁寧に手を洗い、丹念にうがいをする。
「おい、無視するな」
 口元をハンカチで拭いながら、アイの蹴りをかわす。
 空いている席に座り、「いつものでいいか」と訊くエムさんに頷く。
 と、シイナはそこでようやく見慣れない顔に気づいた。

・初対面の相手には自分から名乗る。

「あ、」とそのひとが何か言いかける間に、シイナはすかさず胸ポケットから手帳を取り出すと十五の誕生日に買ってもらった万年筆を抜きさらさらと滑らせて差し出した。
 そこには、「初めまして。ミナモリと申します」と書かれている。
 女性は呆気に取られてその文字を見つめていたが、ややあって、はっと我に返った。
「モモイです。モモイユカリ」
 よろしくお願いします。
「あ、よ、よろしくお願いします」
 頭を下げると、アイがシイナの肩を掴んだ。
「シイお前まだそれやってんの? いい加減喋れよー。面倒くせえよ」
 決めたからね。
「これだよ」アイは唇を尖らせてモモイさんにぼやく。「まいるーるとか言って、変なことばかりしてんの」
 君に変と言われたくはないな。
「ああもう! 書くな!」
 シイナはカウンターの中でてきぱきと動き回るエムさんを目で追う。

・米を研ぐ回数は二十回まで。
・米はやや固めに炊く。

「ご飯の量、これくらいでいいか?」
 モモイさんに確認しながら、エムさんが茶碗に美しく盛る。エムさんの炊くご飯は柔らかくも固くもなくちょうどよい。
 じっと見ていると、なんだ? と声をかけられた。
 いや、久しぶりに料理がしたいなと思って。
「やめろやめろ、シイが厨房に立つとろくなことにならん。お前さんはな、几帳面すぎるんだよ」

・野菜は丹念に洗う。
・調味料はきっちり計る。時間もきっちり計る。
・味噌汁の味噌は火を消してから入れる。

 エムさんが味噌汁をよそう。
 はい、おまちどお。いつもの台詞と共に、モモイさんの前に定食が置かれた。主菜はぶりの照り焼き。副菜はイカと里芋の煮つけにほうれん草のごま和え。ネギとわかめの味噌汁。納豆。

・納豆は、添付のタレ、からし、醤油の順番で入れ、最低でも五十回まぜる。
・納豆と海苔はワンセット。

 続いてアイの分、そのあとでシイナの分が出される。エムさんに、海苔ください、と書いて見せると、露骨に嫌な顔をしながらも缶から一枚取ってくれた。味つけ海苔じゃないあたり、わかっていらっしゃる。

・夕飯時はクラシックをかける。
・食事中にテレビはつけない。

 というのがシイナの家でのルールだが、紅屋ではラジオがついている。たいてい野球中継で、たまに落語とか、トーク番組が流れる。それがいったいいつ放送されたのか、いつの試合なのか、誰も気にしたことがない。この町では情報のリアルタイム性は重要視されない。どちらかというと、食品のリアルタイム性のほうが重要だ。つまり鮮度のことだけれど。
 ともかく、シイナは手を合わせる。いただきます。

・まず味噌汁を一口すすり、次に野菜を食べる。
・二十回以上噛む。
・マナーに気をつける。

 味噌汁の濃さ、ほうれん草に染みただしの味。エムさんの作る料理はどれもバランスがいい。ぶりは脂がのっていて旨い。
 モモイさんも、おいしいと言いながらぱくぱく食べている。

・食べる量は八分目まで。

 紅屋の定食は、各人の胃袋の大きさに合わせて調整されている。恐ろしいことに、おなかいっぱいだ、と食後に口にすると、次回の食事の量が控え目になる。エムさんはそれをほぼ無意識にやってのけていて、何かの病気なんじゃないかと思う。
 シイナが、デザートのミニフルーツポンチに入っているミルク寒天をスプーンで掬っていると、モモイさんが尋ねた。
「ミナモリさんは、この町で何をしてるんですか?」
 食料の注文とか、インフラまわりのもろもろを担当しています。
「モモ、シイの部屋はすごいんだぞ、パソコンがぐあーって」
 食べながら喋るんじゃないよ。
「パソコン、あるんですね」
 使いますか?
「あっ、ずるいぞ、」また喋りだそうとするアイを手で制止する。まだ食べ終わってない。
「いえ、今はいいです」
 そうですか。何か欲しいものがあったら言ってください。
 わかりました、とモモイさんはとても魅力的に微笑んだ。

・食べ終わったらすぐに食器を洗う。

 黙々と食器を洗うエムさんに、たまには手伝いましょうか、と書くと、手を左右に振って、片付けまでが仕事よ、と背中で語られた。
 ごちそうさまでした、おいしかった、と書き置きを残し、シイナは席を立つ。
「じゃーな」とアイがぶっきらぼうに言い捨て、「おやすみなさい」とモモイさんが苦笑いした。まるで姉妹のようだった。

・夕食後一時間は自由に使う。

 シイナは帰る途中でギンを見た。老猫の姿をしたその存在は、ゆっくりと道を横切っていくところだった。シイナは立ち止まって、二礼二拍手一礼で拝んだ。ギンはつまらなさそうな、それでいて鋭い視線をシイナに投げたが、すぐにぷいとそっぽを向いて、またゆっくりと歩き出した。
 部屋に入ると、シイナはオーディオプレイヤのスイッチを入れる。再生ボタンを押すと、スピーカーから秋の風のようなギターの音がふわんと鳴り、落ち葉を舞い上がらせた。ソファに腰を下ろし、何度も読んでぼろぼろになった文庫本を手に取って、適当なページを開く。はらりはらりとページを捲っていると、曲がかわって冬の湖が広がり、繊細な氷の粒がきらきら輝きながら空から落ちてくる。
 お風呂が沸きました、という声がして、シイナはスイッチを切る。

・風呂では体を洗ってから湯船に浸かる。
・頭、腕、胴体、足の順に洗う。
・湯船には顎まで浸かる。
・百数える。

 シイナは風呂が好きだ。湯船に浸かってぼんやりと色々なことを考える。雨が降っている、が口癖の男のこと。年に一度、見えない男性と会話をする女性のこと。世界の終わりでゾンビになった高校生と、西を目指して歩くロボットのこと。
 それらは百数え終えると、ぱちんとシャボン玉が割れるように消えてしまう。

・出たら髪を乾かす。
・コップ一杯の水を飲む。

 シイナはいつも、コップ一杯の水がいかに尊いかを考えずにいられない。巷に溢れるいかなる問題も、コップ一杯の水以上に重要なものではないのだ。

・歯を磨く。
・湯冷めしないうちに布団に入る。

「ほかほかする状態で布団に入るのが最高なんだよな」と幸せそうに笑っていた友人の顔を思い出す。これは彼から借りたルールだ。

・睡眠時間は七時間半。

 電気を消すと、シイナはシイナの顔を脱いで、シイナではなくなる。
 布団に横になる誰でもない者は、おやすみなさい、と呟いて眠りに落ちた。

 誰でもない者は、夢を見ない。

第三部『流町へようこそ?』終わり

#小説 #マイルール

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?