流町にようこそ 3
やがて、からんからん、と小さな音が闇の向こうから転がってきた。からんからん、きいきい、かしゃんかしゃん、きいきい。一定のリズムを刻んで近づいてくる。影から這い出るように、一台の自転車が現れる。危なっかしく左右にふらつきながら私の前まで来ると、ブレーキがけたたましい叫び声をあげて停止した。
自転車に乗っていたのは背の高い若者だった。裾のほつれたジーンズと、ニンジン色の長袖シャツを着て、手足が折れそうなくらいに細長い。目深にかぶったキャップのせいで顔がよく見えないが、白い歯を覗かせて笑っているのはわかる。口だけが夜に浮かんでいるようで不気味だ。
「おっさん、迷子?」
若者は甲高い声で言った。バカにするような調子にムッとしたが、すぐに外向きの笑顔を作って答える。「ええ、ちょっと迷ってしまって」
「そっか。俺はアイ。自転車乗りのアイ」と、聞いてないことまで教えてくれる。どうも、と当たり障りのない返事をする。
「すみません、T駅へは、どう行けばいいですか?」
アイはまるで操り人形のように、かくっと首を傾げた。
「なんだ? T駅って」
「ええと、JRの○○線の」
「JRってなんだ? 悪いけど、生まれてこのかた町から出たことがなくってさ」
そんな話があるだろうか。目の前の若者は軽薄そうな笑みを浮かべている。
その時、はかったみたいに、かたたん、かたたんと遠くから音が聞こえてきた。
「ほら、今、音がしたでしょう。あれですよ」
すると若者は、心底驚いたというような調子で言った。「ふうん、あの音が、JRってやつなんだね」。私は道を教えてもらうのを諦めた。
「久しぶりだよ、迷子は」とアイは言った。「前に来たやつは俺と同じ年くらいでさ。そいつにもらったんだ、これ」
交差点の中でよろめきながら、いびつな円を描くように一周してみせる。
「持ってるのは俺だけなんだ。だから、自転車乗りって呼ばれてる」
え、と、思わずすっとんきょうな声が出た。「なかったんですか、今まで」
「なかったよ」何でもないことのようにアイは答える。「っていうか、なんであるんだ?」
「なんでって……移動するのに便利じゃないですか。遠くに行くときとか」
「移動なんて足でいいだろ。まあ俺は好きだけどな、こういうよくわからないの」
自慢しておきながら身も蓋もない言い様だったが、それ以上追及するのはやめた。おそらくここには「遠く」という概念がないのだ。
「この町には誰もいないんですか」
「いるぞ。俺がいる」
いやあの、そうじゃなくて。
「それに、友達のシーだろ、ワイとケイと、定食屋のエム、バーテンのアールと、猫のギン」
「あ、さっき見た、灰色の」
「会ったのか? あいつ、昔はもっとぴかぴかしてたんだけどな。最近、膨らんでくすんできてる。そろそろ、死ぬぞ」
からからと笑いながらそんなことを言われ、閉口する。他人事、もとい他猫事とはいえ、もう少し思うところはないのだろうか。
「ところでおっさん」
アイがキャップのつばを下げながら、ひひひ、と笑う。キャップが濃い青色をしていることに初めて気づく。なぜか、夜が深くなったような気がした。
「名前、なに?」
町は静まり返っている。まるで聞き耳を立てるように。じわじわと追い詰められているような錯覚を覚えながら、私は名乗った。
(続くのです)
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