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「これはただのひとりごと」

 これはただのひとりごと。
 最初に君を見たのは5月の保健室だった。運動会の予行練習でしっかり怪我をした僕は、気付けば真っ白なカーテンに包まれていた。家のそれよりも一回り大きいベッドに、僕は初めて「特別にされた」感覚を覚えた。
 まだ少しぼやけた頭でカーテンを開ける。先生はどこかに行ってるらしい。窓の向こうで集う沢山の帽子と体操服を見て、なんとなく「あぁ、もう僕は"みんな"に含まれないんだな」と思う。
 ベッドを立って窓際に向かおうとした時だった。ちょうどカーテンの向こうから同じタイミングで出てきた人影が鏡のように重なる。少し驚いてから、まじまじと見つめる。
 それが、君だった。
 それから僕達はのけぞって生まれた微妙な距離を詰めることなく、除け者同士ただお互いに窓の外を眺めていた。
 ひどく陽気のいい空がうざったくて、ひどくひんやりとした保健室の空気が辛気臭かった。
 
 これはただのひとりごと。
 次に君を見たのは雨の日の図書室だった。その日はいつもいる僕達(本の終わりについてる借りた人の名前が書かれる紙に僕と同じ学年で知らない同じ名前が毎回書かれていたから、見たことはなかったけどきっといることは知っていた)とは違う、大きな声で、複数人で、引っ張り合いながら漫画を読む人達で溢れかえっていた。
 そんな中本を奪い取ろうとした一人の男の子が勢い余って座ってる人にぶつかった。そこでマナーを守り、礼儀正しく、一人で本を読んでいたのが君だった。
 図書室に一瞬訪れた緊張した空気はけれどもその男の子の仲間達によって発せられた爆笑とともにどこかに消え去った。その間も色白の文学少女は淀むことなくその目を机の本に落としていた。
 遠くから見てもわかる長いまつ毛が花束みたいで綺麗だった。
 その日の帰り道、初めて僕は自分から人に、君に、声をかけた。
 
 これはただのひとりごと。
 初めて君の目を真正面からまっすぐ見つめたのは3年後の夏だった。近頃エスカレートし出していた君へのいじめが、いよいよ歯止めが効かなくなった時だった。学級委員がとか、先生がとか、そんなものではもうどうしようもなかった。
 僕は傷だらけの手で傷だらけの君の手をとった。これまで何冊も本や日記を交換してきた僕達だったけど、直接触れるのは初めてだった。
 走った。息が切れても、肺が潰れそうになっても、汗が止まらなくなっても走った。後ろを振り返ればあいつらがいる気がして、信号を渡ればあいつらとすれ違う気がして、僕達のことを知る人が誰もいない街まで君と僕は走り続けた。
 そして僕達は海にたどり着いた。海の向こうにあるはずの、君がこの夏引っ越していくはずの、その街を狙って僕は手に取った砂を思いっきり投げた。それは目掛けた街まで届くことなく、目に見えるすぐそこの距離でぱらぱらと音を立てて海に消えた。
 僕達はよく似ていたと思う。考え方とか感覚とか心の作りとか好きな天気とか好きな音楽とか好きな作家とか好きな人のこととか。きっと僕達は、二人でいればうまくやれたと思う。世界と少しだけ手を取り合えたと思う。
 でも、海を挟んだその数十キロは、まだ幼い僕達の繋いだ手を引き裂くには十分な距離だった。
 その次の次の春、飛行機のチケットを手に持った僕はテレビから君の名前を聞いた。海に一人の女の子が攫われた、というニュースだった。
 そんなことしてまで会いに来ようとしなくてよかったのに。僕からちゃんと会いに行ったのに。あと少しだったのに。
 あと少しで、僕達はまた手を取り合えたのに。
 
 これはただのひとりごと。
 本当に、ただの。今では、ひとりごと。
 
 
 
あかいうみ
 
 
足跡のない君が隣で笑って言うんだ
「青い海の正体は私たちの涙かもね」
 
汚された髪の毛を潮風にばらまいて
「こっちにおいでよ」
君は海へ歩き出す
 
青い海の上を歩く夢を見たんだ
青い海の上を歩く夢を見たのに
 
赤い海を描いた少女は怒られて
赤い涙を流す 細いその手首から
 
見て、海が綺麗、すごく
私は"みんな”に含まれないの?
早く帰ろうよ、こんなのバレたらまずいって
僕たちの声は先生に聞こえないんだ、わかるでしょ
ねえ、約束しよう
じゃああなたはどうだって言うの
何を?
僕は"みんな”に含まれたいよ
いつかふたりでこんな世界
抜け出そう
 
青い海の上を歩く夢を見たんだ
青い海の上を歩く夢を見たのに
青い海の深く溶ける君を見たんだ
青い海を赤く
 
 
 
 これはただのひとりごと。
 私は「またね」という言葉が嫌いだ。そこに小さな「お別れ」を感じるから。手を振る度これが最後になるんじゃないかなんて考えちゃうから。
 きっと昔、そうして父とお別れをしたせいだ。死んではいないのだろうけど、今どこにいて、何をして、どんな風に生きているのかは知らない。ただ「またね」という今も果たされない約束だけが宙に浮かんでいる。
 そんなだから私は昔から努めて一人でいようとした。自分が弱いってわかってるから。一度人のあたたかさを知ったらもうこの世界の冷たさに耐えられなくなるとわかってるから。愛されたいとわかってるから。
 そして9月1日(私達で言うところの8月32日)、バス停で君に会った。乗らなきゃいけないバスにどうしても足が向かなくて、初めてルールを逸脱したあの日。「あぁ、もうやだなぁ、いなくなりたいなぁ」という気持ちがはっきりと輪郭を帯びたあの日。一本、また一本と私はバスを見送り続けていった。
 どれくらいの時間が経ったろう?連日の睡眠不足のせいで知らぬ間に寝ていたみたいだった。目覚めると確か朝そこにいたはずのこれまた眠そうな青年が変わらずそこにいた。
 鏡を見てるみたいだな、と思った。
 それから数日間同じようにバス停で顔を合わせてはお互いにルールを破り続けた。なんとなく勝手に「悪友」みたいな感じがして頼もしかった。
 いよいよもうお隣さんだろうというくらい空気を共有したある日、君は控えめに会釈をして、
 「それじゃあ、また」
 と言った。
 私は少しだけ「またね」という言葉が好きになった。
 
 これはただのひとりごと。
 私は「またね」という言葉が嫌いだ。そこに少しの「お別れ」を感じるから。手を振る度また手を振り合えるその時を待たなきゃいけないから。
 季節は冬になった。その頃になると君は家庭環境のこと、そのせいで夜なかなか眠れないこと、学校は好きじゃないけどまだ家よりは眠れる場所として通ってることなんかを、あまり重くならないように少し微笑みながら話してくれた。その遠くを見つめる瞳に何が映ってるのか知りたくて、私も同じように心と体に隠した傷を包み隠さず話した。
 寒くなって見せあうことはなくなったけれど、傷つけられることがあったらその箇所にそっと手を乗せてただ無言で数秒間労ることなんかもした。それを言い訳に冬は触れ合うことができるから、私はこの白い季節が好きだった。
 きっと君も私も、物心ついた時から今の今まで絵日記なんてものを書いてたら真っ黒だったはずだ。文字は乱れ、絵を描くスペースはただ黒く塗り潰され、そんな人生だったはずだ。
 そして次のページからは壊れかけの未成年にはどうしようもない程の真っ白、空白や虚無が広がっている。
 私達は色を知らないのだ。その描き方も、使い方も、守り方も知らないのだ。
 あるのは「将来」ではなく「猶予」だ。
 だから取り返したかったのかもしれない。あるいは君の笑顔が綺麗だったせいかもしれない。
 その日から、私達はお互いの日記帳に色を足していった。少しずつ、少しずつ、いろんな色を足していった。世界はいまだに一切の色を持たなかったけれど、私が欲しい色は君が、君が欲しい色は私が持ってる気がした。そして多分、ずっと、それだけでよかった。
 あぁ、生きてる、と思った。
 
 これはただのひとりごと。
 私は「またね」という言葉が好きだ。そこに小さな「約束」を感じるから。手を振る度手渡すその言葉に、ちゃんと「約束」を感じるから。
 次の冬を迎えた頃、私達の心はすっかりお互いの姿形になっていた。私の心は君で出来ていて、多分君の心も私で出来ていた。
 家の中も外も相変わらずだったけれど、別れ際少し増えた手順の後の「またね」があれば強い雨風も凌ぐことができた。約束を守らなきゃいけない。
 私達は少しずつ、幸せを許し始めていた。そして、そんなある日のことだった。
 予報になかった雨が降った日、いつもより2時間遅くバス停に現れた君の頬にはしっかりと痣があった。
 それがどういうことか、私にはすぐにわかった。
 「もうそこまで来ている」のだ。
 これは警告ではなく結果なのだ。予兆ではなく現象なのだ。雨が降り始めたことの報せでなく、台風の中に突入したことの報せなのだ。
 君はまた笑った。でももう私は笑えなかった。
 段々と横殴りになっていく雨に、君は「ちょっと痛いんだ」と言った。私にはそれが雨のことなのか頬のことなのか心のことなのかわからなかった。きっとその全部が外れじゃないんだろう。
 「行かなきゃ」君は言った。「どこに?」私は聞いた。
 すると今度は君も笑わず「ここじゃないどこか。大切な人を巻き込まない場所」と答えた。きっと喜ぶべき呼ばれ方をしたのに、少しも嬉しくはなれなかった。ねえ、だって、おいていかないでよ。
 いよいよ雨が強くなってきた。もう役に立ちそうもない傘を捨てた代わりに、私は思いっきり今から失うかもしれない人のことを抱きしめた。その感触、その冷たさ、その匂い、その息、その人のこと。全部覚えたくて、全部離したくなくて抱きしめた。
 この世界は不平等だ。世界は私達に優しくなんかしてくれないし、世界は私達を救ってなんかくれない。それでもこんな世界にしがみついたお陰で君と出会えたのだとしたら、私はまだ頑張ってみようと思う。だから、君も。お願い。
 「またね」と君は言った。
 「またね」と私も言った。
 それが「約束」になるようにと願いながら。
 
 これはただのひとりごと。
 本当に、ただの。今では、ひとりごと。
 
 
 
やくそくやぶり
 
 
夜行バスのカーテンから射し込む
街灯が流星群みたい
ねごとのふりで願いを唱えたら
ひとつくらい叶ったりしないかな
 
それは多分、海の向こうの話
傘をなくした二月の
窓に映る景色は灰の色で
みんなもっと暗い色の服を着て
 
君の形でできたこの孤独を
誰が埋められるのさ
そうでしょう?
 
君の日付は止まったまま
ねえ、もう冬になるよ 追いついちゃうよ
おねがい ほら何か言ってみてよ
私ずっと あの日から止まったまま
むせるくらい花を連れてどこへ行くの
ねえ、もう笑ってもいいのかな
 
胸にぽつり 空いた孤独の穴を
埋めるために通したピアス
「ちょっと痛いんだ」そう君は笑った
ねえ、わかんないよ それはどっちのこと?
 
欲しかった言葉はたったひとつ
「ただいま」
髪の色が変わっても
君の優しい笑顔はずっと変わらなかった
 
変わらないでよ
 
おいていかないでよ
 
君の日付は止まったまま
ねえ、また冬が過ぎて離れちゃうよ
「またね」で終わりなんてダメだよ
私ずっと あの日から止まったまま
なぜだろう 君の夢を見た気がした
ねえ、もう泣いてもいいのかな
 
 
 
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