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「金木犀にさそわれて」

 君の思い出にはいつも匂いがある。たとえば鼻先をくすぐる秋の甘い匂い。私の好きなあの匂いの正体は金木犀だと教えてくれたのが幼い頃の君だった。そしてその花が持つ花言葉を教えてくれたのも、もうここにはいない今の君だった。


「初恋」
「え?」
「初恋なんだって。花言葉」
 あぁ、私みたいだな、と思った。
 声の持ち主が黄色い花弁を愛しく見上げるように、その髪の毛を、その長い指を、その綺麗な横顔を、私は見上げていた。
 いつの間にか咲いていたこの花の名前を知った時から君は背が高かった。
「詳しいんだね」
「うん。言葉が好きだから」
 君はそう言うとまたいつものように物思いに耽るような顔で歩き出した。遠くを眺めるような瞳が、君にしか見えないものを見るような瞳が、まるで目の前の私なんか見ていないような瞳が、何を見てるのか知りたかった。
 だから私は、手を伸ばしたのだと思う。


 幼い頃、私たちは秘密を分けあった。ひとつはみんなに言うのが恥ずかしい夢、もうひとつはある一人にだけ言うのが恥ずかしい夢。雄大で、立派で、応援されるべき前者が君のもので、私的で、切実で、応援してほしい後者が私のものだった。
 その時教えてくれた君の夢は一秒たりとも忘れたことがないし、私の夢を教えた時の君の表情は一ミリたりとも覚えていない。私は顔を見れなかったから。
 きっと叶わないだろう。そんなことはわかっていた。そしてそれは君も同じだったのだろう。時間が経てば、歳をとれば、どうして夢が夢と呼ばれるのか、その所以を嫌と言うほど突きつけられる。身をもって知らされる。痛みを伴って脳の深くに記憶させられる。
 そしてあの頃の子供ではなくなってしまった私たちはもう知っている。
 夢が最後に見せてくれるのは曖昧な希望ではなく、確かな絶望だ。始まりではなく、お終いだ。
 でも、だから、終わってしまうまではこうして君の隣に私はいる。私の隣には君がいる。この関係に名前はない。それでも構わない。
 誰かのために、生きてみたかった。


 ふいに轟音が響いた。突然のことに身を竦めたまま視線を上げると、遠くの方で不穏な光が瞬いていた。気まぐれな秋の空はまずいと思った時には表情を変え、辺り一面はすぐに土砂降りになった。
 雨宿りの軒先で内巻きの取れた毛先を絞っていると、いつもより少し近い隣で同じくシャツの袖を絞っている人からふんわりと甘い匂いがした。
 私が金木犀だと思っていた匂いはもしかしたらこれだったのかもしれない、と思った。
 髪を絞る。雨が床を叩く。君がもう一方の袖を絞る。雨が床を叩く。私はもう一度髪を絞る。今度は雨はこぼれない。隣を盗み見る。
 永遠みたいな一瞬の、一瞬みたいな永遠の沈黙が流れていた。
 すると一粒の雨が落ちるように、足元の白線を踏み越えるように、思い出を思い出にするように、君は言った。
「もういいかなって思うんだ。だから、ごめん」
 髪の毛から滴る雨粒が涙みたいに見えた。


 雨が止むと金木犀の匂いは消えていた。かわりに秋の終わりを知らせるような、澄み切って、どこか寂しい風が二人の間を通り抜けた。
 間もなくして、私たちが過ごした名前のない季節は終わった。
 そしてその日、私は金木犀が持つもう一つの花言葉を知った。
 雨が降ると尊い香りを惜しむことなく散る姿からその言葉がついたのだと言う。
 君ならなんて思うだろうか?なんて言葉にするだろうか?
 私は、やっぱり、
 私たちみたいだな、と思った。




金木犀にさそわれて


甘い匂いがした
夢を分けあって笑いあったわたしたちがいた

結末みたいに風に舞った花を掴みたくて手を伸ばした
なにもかもいらなかった この季節が続くなら

わたしは金木犀にさそわれて ひとりずっとずっと揺れてる
光る一等星にあこがれた わたしのような花言葉
金木犀にさそわれて 今もずっとずっと待ってるから

雨の匂いがして君を思い出した
花のような睫毛が揺れる
未来さえも言わなかった 思い出に住めるなら

君は金木犀にさらわれて 雨にそっとそっと散ってく
光る一等星にあこがれた 君みたいな花言葉
金木犀にさらわれて 今もずっとずっと舞ってるかな

誰かのため生きたい 君のため生きたい
匂いがまだ消えない 君が消えない
本当はもう足りない 思い出じゃ足りない
その先に君がいないなら意味などないの

いつしか金木犀は過ぎ去って ふたりそっとそっと閉じてく
光る一等星に夢をみた わたしたちは花言葉
金木犀が終わっても わたしずっとずっと待ってるから

わたしは金木犀にさそわれて ひとりずっとずっと揺れてる
光る一等星にあこがれた わたしのような花言葉
金木犀にさそわれて 今もずっとずっと待ってるから




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