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「その日から、この広い世界の中で、私たちはひとりぼっちだった」

 昔、こんな話を聞いたことがある。「涙ってなあに?」「人間がじぶんでつくる、世界で一ばん小さい海のことだよ。」
 これが誰が書いたもので、なんてタイトルの本に書かれたものかはもう覚えていないけれど、その言葉だけは鮮明に覚えていた。
 そしてそれを教えてくれた子のことも覚えていた。触れたらその場所から腐敗が始まってしまいそうな程白い肌で、正面から向き合っても私より数十メートル遠くの何かを見てるような瞳をしている子だった。彼女はいつもそうだった。
 けれどその本の話をしてくれてる時だけは彼女も私と同じ中学生だった。一人の女の子だった。夢見がちな少女だった。私たちは友達だった。
 チャイムが鳴って席に着くと、彼女はまた元の彼女に戻った。魚が海の底で身を潜めるような、そんな風だった。
 だから彼女はいつもここにいて、いつもそこにいなかった。
 それが、私はなんとなく不安だった。
 

 彼女は、人より少し賢かった。また彼女は、人より少し一人を好んだ。そして彼女は、人より少し綺麗だった。理由なんてそれだけで十分だった。
 卒業式は残酷だ。式典後、一・二年生が並ぶアーチをみんなは幸せそうに歩いていた。「三年間お疲れ様でした」の言葉と共に色紙を渡される人、「これ、受け取ってください」の言葉と共に手紙を渡される人、ありようは様々でもみんな「めでたい場所」と位置付けて良さそうな空気を漂わせていた。
 私も後輩から「ありがとうございました」とカラフルな色紙と模範的な笑顔を渡されながらその中を歩いていた。
 その時、ふと前の方を歩く彼女が目に止まった。彼女の手には何もなく、リボンとかベストとかそういった制服が誰かの手元へ欠けることもなく、子供をいきなり大海原へ投げ出すことへの免罪符のような卒業証書の筒と、クラスの担当が適当につけたのだろうおかしな位置の安っぽい花が肩越しに頭をのぞかせていた。
 私は叫びたかった。私「たち」が知りたかったことはここには何もなかった。教科書の中にもクラスメイトの会話の中にも理不尽な体育の居残り計測の中にも、あなたと私が知りたかったことは何もなかった。だってこんなの間違ってるよ。
 私は三年になった春先の大怪我で少しの間病院にいて、帰ってきたタイミングで部活を引退した。そこからはサボっていた受験勉強のためこの一年間を費やした。周りの変化に疎いまま自分のことでいっぱいいっぱいだった。だから私がいない間に何があったのか、私がいる間に何がどう変わっていっていたのかが分からなかった。それがとても悔しかった。
 校門付近までのアーチを潜り終え、みんなは先生と話し込んでいた。「先生は打ち上げ来るー?」「あいつこれから告るらしいっすよ!」「お前携帯持ってきてんじゃねえか、仕方ねぇなぁ」そんな会話だった。
 するとふと、誰かに呼ばれた気がした。振り返るとそこにはあなたがいた。
 囁き声じゃ届かないはずの距離なのに何かを囁かれた気がした。そして、見間違いでなければ、彼女は私にだけ微笑んでくれた気がした。
 それが、私たちが会えた最後から二番目の時のことだった。


「涙ってなあに?」「人間がじぶんでつくる、世界で一ばん小さい海のことだよ。」
 彼女は病院で退屈な私に本を読み聞かせてくれた。小説でもない詩集でもないなんだか不思議な文章の本で、私には難しかったけど音の流れは心地よかった。彼女がこんなふうにちょっと幼い励まし方をするのが少し意外で、私はなんだか嬉しかった。
 それにさっき読んでくれた一節が私はとても好きだった。きっとこの涙にも意味があると思いたかったのかもしれない。
「足、痛い?」彼女は言った。「ううん、静かにしてれば」私は答えた。
 一週間前、バスケ部の練習試合で何人かと絡み合って倒れ込んだ時、考え得る中で最悪に近い形の怪我の仕方を私はした。その時のことも、足がどうだったかも、音とか匂いとかも、思い出したくなくて何も考えないようにしていた。きっともう戻れないだろうな、そんなことを考えていた。
 すると彼女がふいに言った。
「ねえ、魔法をかけてあげようか」
 私が意味を考えあぐねているのを見て、彼女は「いい?」と目配せをしてから包帯でぐるぐる巻きの足らしきあたりにそっと手を置いた。痛くはなかった。
 それからゆっくりと、傷つけないように優しく何度かさすった後、窓の外に向けてそれをふっ、と吹き飛ばした。


 いたいのいたいの、とんでゆけ。


 彼女は言った。「知ってると思うけど、私、あんまりみんなに好かれてはいないんだ。別に悲しくはないけど、たまに寂しくなる。だから、私と一緒にいたことは言わない方がいいと思うし、君が帰ってきてからも一緒にはいないほうがいいと思う。少しずつ、私みんなとずれていっちゃってるんだ、多分」
 私が何かを言おうとして、けれど飲み込んだのを見て、彼女は「ありがとう」と微笑んだ。この世界には多分、「優しさでは救えないもの」と「さよならで救えるもの」がある。
「私ね、夢があるんだ。魚みたいに海を泳いでいたいの。青い綺麗な水の中をずっと。魚になれば息継ぎなんていらないし、きっと今ある色んな息苦しいものからも解放される気がするの。君が足を怪我して、もちろん悲しいことは悲しいこととして、それでも私、君にはこれを言わずにいられなかった。一緒に魚になって自由に泳げたら、って。もし君の足が治らなくても、二人自由に生きれたら、って。そう思ったの」
 これは恋じゃない。愛でもない。けれどもう私は知っている。夢を閉ざされ一人で毎日泣いていた夜に私はそれを知ってしまった。
 これは「孤独」だ。誰にも救うことのできない感情だ。けれどそれを真に知っている者同士でなら、ほんの少しだけ触れ合うことができる。そういうものだ。
 その日から、この広い世界の中で、私たちはひとりぼっちだった。


 家に着いた時、22歳の彼女の手は震えていた。恐る恐る扉を開けて俯くその姿は、そんなことないはずなのに記憶の中の彼女よりも小さく見えた。
 手をひいて駅に向かう途中、大通りに出たところで彼女は「痛い」と言った。久々に見るヘッドライトの強い光が目に眩しいらしかった。
 駅までは遠いしどうしようかと思い悩んだ瞬間、視界の隅に信号待ちで燻るタクシーが映った。痛みの正体に身体を委ねるのも変な気がしたけれど、これしかなかった。
 彼女の願いを叶えるにはきっとすごいお金がかかるだろうと思いながら、それが出来るのも自分が苦痛で仕方なかった仕事のおかげなんだと思えるとなんだか笑えた。それになんとなく、もう帰り道のことは気にしないでいい気がしていた。


 久々の電話だった。あの頃から自分の電話番号が変わっていなかったことに私は感謝した。


「ねえ、私海に行きたい。もう魚になりたい。君は?」

 孤独に捕まった私たちにはそれだけで十分だった。

「うん。一緒に行こう」


 何を話すべきなんだろう?お互いが知らないこれまでの七年間について空白を埋めるように会話すべきだろうか?いや、きっとそんなことお互いに望んでないだろう。それをしても空白が真っ黒に染まるだけなのは目に見えている。
 ただ最後に、ふたりになれなくても、ひとりぼっちとひとりぼっちでも、誰かのそばにいたかったんだ。


 長い旅を終えタクシーを降りる。
「ごめんね、高かったでしょう」彼女は言った。「大丈夫。もういらないから」私は答えた。
 それにその数字が大きければ大きいほど、前いた場所から離れられたんだと感じて安心できた。
 海風に髪を委ねた彼女がふいに聞く。「私の夢はここで叶うけど、君の夢はここで叶うの?」
 その目は、優しく私の足へと向けられていた。
「夢、か…」
 そう言いながら、私は自分の夢がもう変わっていることに本当は気づいていた。
 あなたがあの本を読んでくれた時に、私の夢は変わったんだ。


 流れ星が綺麗だった。私は願い事をしながら呟いた。


「私、海を作りたい。世界で一ばん小さな海を、一度でいいから、思いきり、作りたい」
 

 これは恋じゃない。愛でもない。けれどもう私は知っている。夢を閉ざされ一人で毎日泣いていた夜に私はそれを知ってしまった。
 これは「孤独」だ。誰にも救うことのできない感情だ。けれどそれを真に知っている者同士でなら、ほんの少しだけ触れ合うことができる。そういうものだ。 

 夜が明けそうだった。できればもう明日は迎えたくなかった。
 それでも。
 それでもまた明日がやってくるのなら、私は。


「だから、お願い。まだ、もう少しここにいて」



世界はひとりぼっち


こわいよ こわいよ 夜にのみこまれるのが
こわいよ こわいんだよ
ささった言葉のはりが
ぬけずにきょうもベッドへと
もぐって もぐって ねむった

おやすみ
クライヤー クライヤー クライヤーは魚にかわって
およぐ およぐ はるか とおく
涙の海へと
まよなかくらいな くらいな くらいなか夜空をみあげた
ありも こいも つきも きみも
みんなひとりぼっち

いたいよ いたいよ ヘッドライトの点滅が
いたいの いたいの とんでゆけ

さよなら
フライヤー フライヤー フライヤーは流星になって
ひとつ ふたつ みっつ 夢を
かかえてくよでも
とけいはチクタク チクタク チクタクっておいかけてくるの
みっつ ふたつ ひとつ ぷつり
そうしてひとりぼっち

あしたをいやがるカーテンに
ちかづく朝のあしおと
地球は涙をのせて
まわるよ

おはよう
クライヤー クライヤー クライヤーは少女にもどって
おちる おちる はるか ふかく
涙の底まで
まよなかくらいな くらいな くらいなか夜空をさがした
ありも こいも つきも みんな
せかいはひとりぼっち



午前五時「世界はひとりぼっち」各種配信
https://big-up.style/FkufKs0uhz

午前五時「世界はひとりぼっち」Music Video
https://www.youtube.com/watch?v=jLEdMr5r9Oo

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