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「わたしは、先生みたいな人になりたかった」

「それではみなさん、さようなら」
「さようなら!」
 小さな教室に割れんばかりの声が放たれて、一瞬蝉の大合唱と重なった。
 私は昨日持ち帰り忘れた給食袋を手に取りすぐにここを出ようとする。
 もうすぐで夏休みだ。校門を出て左、ひとつ目の分かれ道を右から二番目、その道まで行けばもう誰もついてこない。
 夏休みは、私にとって救いそのものだ。
 三十数日の期限つきではあるけれど、それでもその間は穏やかに過ごすことができる。
 ふと気になって振り返る。するとやっぱり先生と目が合う。
「なつきちゃん、またね」
 先生の口が優しく動く。私にだけ届く声で、音のない言葉が柔らかく投げられる。
「先生、またね」
 肩を当ててきたクラスメイトから小さく「邪魔なんだよ」と聞こえてきたけど今だけはそんな言葉届かない。
 だって私は笑っているから。先生に向けて笑っているから。
 先生は、私にとって救いそのものだ。
 
 
 朝起きて小走りでリビングに向かう。テーブルの上で何枚か重なったはがきを少しドキドキしながらめくっていく。
 残り枚数が少なくなってきて落ち込み始めたその時、求めていた名前が現れた。
 先生からの暑中お見舞いだ。
 嬉しくて思わず裏返してしまう。けれどすぐ向けなおして、まずは自分の名前を見る。
 先生が書いてくれた私の名前だ。先生が私のために書いてくれた、私の名前。
 夏は暑くてあまり好きじゃないけれど、はがきに丁寧に書かれた「夏生」という文字を見るこの時だけは、夏のことを好きになれる。
 少し離れたところには先生の名前と知らない街の名前がある。
 はがきを持つ手の親指で、先生の名前をそっと撫でる。先生の笑顔を思い出す。先生の声を思い出す。
 それから空いてる方の手でもう一度撫でる。今度は人差し指で。そして知らない街の名と番号をなぞる。先生が暮らしてるであろうその街に思いを馳せる。
 なんとなく、海が見える街のような気がした。
 表面にたっぷりと時間と心をかけたあと、同じくらい、いやそれ以上に楽しみな裏面を見る。さっき一瞬フライングして見た時の記憶が正しければ、今年も先生の暑中お見舞いはいっぱいの文字で真っ黒だ。
 深呼吸をひとつして、はがきを裏返す。
 やっぱりそこには、沢山の文字が所狭しと並んでいた。でも丁寧で、とても読みやすい字だ。
 それだけの量の言葉を今年も貰えたことにまず嬉しくなる。心から嬉しくなる。
 いつものように季節の挨拶から始まり、自分の話も早々に先生は私の体調を気遣ってくれる。日常を思ってくれる。
 私は先生のことが知りたいのにと思いつつ、先生が私のことを考えてくれていることの喜びが勝って許してしまう。
 毎年こうだ、きっと私は騙されやすい人間だと思いながら、夏休みが明けたら今度は私が沢山話を聞こうと決める。
 先生に会えると思うと、この夏休みが終わるのもいいかな、なんて思えたりする。
 自分の部屋に戻って、もう小さい学習机の二番目の引き出しを開ける。
奥の方で何枚か重なったはがきの上澄みは、全て先生から貰ったものだ。
 束を取り出して、その上にそっと今朝の幸せをのせる。
 これで先生の暑中お見舞いは六枚目だった。
 その枚数が意味する寂しさが心の中を通り抜け、さっきまでの感動が少し熱を帯び始めたところですぐに思考を変える。今日は先生への返信を書こう。その為に一日使ってもいい。
 ノートを取り出し下書きを始めたところで、どこからか風が吹いた。
 ペンを持つ右手に先生のはがきが触れて、少しだけドキッとする。
 鼻の先を掠めるそれは、行ったことはないけれど、なんとなく、海の匂いのような気がした。
 
 
 私が中学生になってからも、先生の暑中お見舞いは届いた。
 先生の勤める学校が変わったこと、そこでは環境やルールが違って少し大変なこと、よく空を見るようになったこと。
 それまでとは違い先生の話が増えたことに、私は嬉しくなりながらも妙な違和感を覚えていた。
 なぜだか、窓辺から外を見つめる先生が思い浮かんだ。
 
 そして中学二年生の夏、先生からの暑中お見舞いは届かなかった。
 代わりに「はがき」は届いた。
 そこには去年までの沢山の文字はなく、ただ小さく、知らない街と知らない病院の名前が書かれていた。
 海の見える場所だった。
 
 
 
 先生のことを思い出していた。
 初めて名前を呼ばれた日のこと、初めて笑ってくれた日のこと、初めて褒めてくれた日のこと、初めて叱られた日のこと、初めて「気づけなくてごめんね」と謝られた日のこと、初めて抱きしめられた日のこと、初めて教室で二人で
 エタノールの匂いに思考が遮られる。
 
 
 先生のことを思い出していた。
 一緒に沢山話したこと、一緒に涙を流したこと、一緒に帰ったこと、一緒にゆうやけこやけを歌ったこと、一緒に買い物袋を持って歩いたこと、一緒に食卓にご飯を並べたこと、一緒に星空を見たこと、一緒にもう一回話したこと、一緒に夢
 どこまでも続く白い廊下に目が眩む。
 
 
 そして今、私は一枚の扉の前に立っている。
 
 
 
ねえ先生、私は、
 
わたしは、
 

先生みたいな人になりたかった。
先生みたいに優しくなりたかった。
先生みたいに美しくなりたかった。
先生みたいに正しくなりたかった。
先生だけをずっと見ていた。先生だけをずっと思っていた。
でも今、私はその憧れに手を伸ばす。正体に触れる。秘密を知る。
先生を知る。
 
 
扉の向こうから「どうぞ」と声がする。
私は、白く重い扉を開けた。
 
 
 

先生
 
 
痩せこけた先生が
「あなたのおかげで救われたの」
と静かに微笑む
海の見える部屋で 真っ白なカーテンが夢みたいで
だけど全てが壊れそうだった
夏の亡霊がわたしを離さない
 
手を握った時 初めて先生は「先生」じゃなく
同じ「人間」と気づいたんだよ
夢、傷、嘘
わたしは何もできず黙っていた
 
ねえ先生 わたしはいつかあなたに追いつくでしょうか
まだ何も知らない その意味も分からないの
ねえ先生 どうしてそんな風に笑えるの
本当の悲しみも 絶望も
わたし分からないのに
 
ねえ先生 わたしはいつかあなたを追い越すでしょうか
もう何も見えない もう全部分からないの
ねえ先生 答えて いつもみたいに「正解」を教えて
悲しみも 絶望も
抱きしめられるかな
 
海を見つめながら
「あなたのおかげで救われたの」
と微笑んで気づいた
わたしも先生と同じになったよ、って
夏の亡霊がわたしを離さない
 

 
午前五時「先生」各種配信
https://linkco.re/XRbf7ueA
 
午前五時「先生」Music Video
https://www.youtube.com/watch?v=DEE47ApWPts

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