見出し画像

「幸福恐怖症」

「幸せになっていいんだよ。だから、」
 そこまで書くと僕はパソコンを叩く指を止めた。窓の外からは晩夏の心地いい風が吹いてくる。
 ここまでくるのに大分時間がかかってしまった。街行く人の袖の長さが何度か変わり、僕はその度にしっかりと体調を崩し、幾度となくカレンダーをめくった。そして君と過ごせなかった九月を迎えた。
 それでも、僕は書くことを選んだ。
 季節外れの熱いコーヒーを啜る。夏でもホットコーヒーを飲むのも君を忘れないための儀式だった。
 君はよく「逆さまの美しさ」を口にした。悲しい時こそ笑いましょうとか失くしたものこそ宝物とか、そういう類のものを表す言葉らしかった。
 そしてその逆さま採集家の手に捕まったのが本収集家の僕だった。
 整然とした本棚に手をかける。古い紙独特の香りが立つ数多の文庫の上に一冊、去年の数字と馴染みある学校名が書かれた異質な厚表紙が置かれている。
 僕たちが通った高校の卒業アルバムだった。
 まだ新しく艶が残るページをめくると、そこにはいかにも「楽しい三年間」「最高の仲間」「ありがとう」というお題で撮影されたような写真が並んでいる。けれどそのどこにも、君を見つけることはできなかった。
 卒業前に君は遠くに行ってしまったからだ。
 そしてもちろん、クラス在籍生の個人写真以外には僕も写っていなかった。僕たちにとってあの場所はそういうものだった。
 ただ唯一、僕も君も思わぬ形で写り込んでしまった一枚がある。ひとつは体育祭の花形であるリレーの写真。そしてもうひとつは雨の昼休みに教室で弁当をかこむグループの写真。
 当時その写真は大いに話題になった。それはクラスで地味な人物が被写体の中心にいるからではなく、そのどちらもが遠くに霞む立ち入り禁止の屋上に人影らしきものを捉えていたためだった。
 幽霊だ心霊写真だと卒業式後の教室は騒ぎ立てる。中には嬉々として正体を突き止めようとする者もいた。けれど誰も内情を知る僕に声をかける人はなく、真相は闇の中となった。
 理由はシンプルだ。
 僕は「幽霊」だったから。
 そして何を隠そうもう一人の「幽霊」が、君だった。


 君と初めて出会った日、僕は異国の海辺にいた。やむない別れに悲観することもなく、あるべき自分に嘘をつくこともなく、ただまっすぐと真実を照らす太陽を眩しく感じていた。
 そんな風に本の世界ならどこにでも行けた。まだ見たことのない美しい景色にだって、帰ることのできない理想の過去にだって、愛して欲しかった人の腕の中にだって、ページを開けば求める場所へいつだって行けた。
 けれど一度本を閉じてしまえば、今に取り残された自分のどうしようもなさを感じた。無能さを感じた。醜さを感じた。
 足元を眺める。そこは青く透き通った想像の海辺から灰色に澱む見慣れたコンクリートに変わっている。
 もう、限界だった。
 体育祭を行う眼下のグラウンドからはスターターピストルのけたたましい音が響く。
 合図だ。そう思った。

 靴を揃える。
 目を閉じる。
 手を広げる。
 足を傾ける。
 体の代わりに文庫本が落ちる。

 屋上からひらひらと舞う栞と風にはためくページが太陽を反射して、綺麗だなと思ったことを覚えている。
 左腕に感触があった。逆さまになりかけた僕を捕まえ本を落とした犯人を探すと、白くひんやりとした採集家の手に気づく。
 その綺麗な右手の持ち主を見る。そして目が合う。
 君がここに居合わせた理由を、僕はまだ知らなかった。
 遠い地上からリレーの勝負が決したのか歓声が上がる。午後の光が生温い五月のことだった。


 以来、僕たちは昼休みや部活のない放課後なんかに屋上で会うようになった。
 君がいなくなるまでの三ヶ月間、普通に授業を受け、普通にご飯を食べ、普通に毎日を生きる。「死」を介して出会った以外、僕たちは普通の高校生だった。
 一度だけ、本は読まないの、と聞いたことがある。君は空を見上げながら、終わりがあるものは寂しいから、と答えた。
 そしてこうも言った。
「でも、幸せな終わり方だったら」


 それからも僕は本を読んでいる。美しい景色を求め、理想の過去を求め、触れたかった右手を求め、本の世界を手探りで歩き続けている。
 いつしかその手は本の他に原稿用紙に向かってペンを持つようになり、パソコンに向かって文章を打つようになった。
 そして今、最初の作品を書き終えようとしている。
 窓の外を見る。通りが浴衣色に染まる去年と変わらない風景が、不意にあの日屋上に立っていた君を思い出させた。
 本を手に教室にいた昼休み、窓を叩く雨の斜線に消えた君は手すりの向こう側にいて、その目線が空に向かうことはなかった。
 なんにもない、ただの七月のある日。それが僕たちの最後から二番目の思い出だった。


 そろそろ時間だ。今年は日程が伸びて九月になったのだった。
 あの雨の日のように本が手から落ちることはない。僕はゆっくりと本棚にアルバムをしまう。そして途切れた続きを思い描く。
 遅くなったけど、ここから始めるよ。
 物語の最後の一行を書き終え、君と約束した場所へ僕は歩き出した。




幸福恐怖症


飛行機が落ちる夢で目が覚めた
いっそ夢なんかじゃなく本当ならよかったのに
頼んでもない明日がうざったいんだよ
朝がやってくる度また死ねなかったと思うんだ

生きてるだけで誰もが美しい
そうは思えない夜が時々やってくるんだ
いつかは壊れてしまう宝物なら
こんな心も体も全部いらなかったのに

幸福恐怖症の僕ら
今日も終わりに恋する
世界が綺麗すぎるせいだ
太陽が眩しかったんだ
不幸せ採集家の君
その手に捕まった指がまだ痛いよ

母さんに手を離される夢を見た
何に怯えてるのかも今じゃよくわからないよ
ただ明日を怖がらずに眠りたいだけ
きっともう少し普通にゆるく生きてみたいだけ
多分ちょっと笑ってみたいだけなんだ

さよなら依存症の僕ら
今日も血反吐を吐いて
めでたしめでたしの続きの
守り方を探し回るの
悲劇的愛好家の君
その手が消えそうで お願い まだ居たいよ

うまく愛せなかった僕を愛したくて歌を書いてる
うまく愛せなかった君を愛したくて歌を歌ってる

幸福片想いの僕ら
ずっとずっとわかってた
本当は願っているそれも
もうすぐで手遅れなことも
不幸せ両想いの君
その手を広げたら君はもう居ないの

幸福恐怖症の僕ら
今日も終わりに恋する
世界が綺麗に見えたのは
君が綺麗すぎるせいだよ
不幸せ最終話の君
その手を捕まえたらやっぱりまだ痛いよ




「じゃあいつか私たちを書いて欲しいな。この悲しい話を、あなたなりのハッピーエンドで」
 灯りのない渡り廊下を歩きながら君は言った。
 頬を撫でる夜風が涼しい。午後七時過ぎの学校には忍び込んだ僕たち以外に人影はなかった。
「数ヶ月前までの話だよ。それにもう、書けないんだ」
 君の後ろ姿を追いかけながら僕は言った。
「どうして?」
「…ただ、誰かに見つけて欲しかっただけなんだとわかったから」
「そっか」
 脱いだ外履きを片手に階段を上る。踊り場の高窓から差し込む月明かりが君の長い髪をそっと照らした。
「私ね、幸せになっちゃいけない気がしてたんだ。自分も同じ理由で行ったのに偶然居合わせただけのあなたのことを身勝手に引き止めて、何も渡せないで、そしてこうなることが決まって…そんな自分のこと、やっぱり大切には思えなかったんだ。だから…」
 暗闇の中では目の代わりに耳が冴える。
 降り始めた雨みたいに、君の声は震えていた。
 ふと、僕は今からこの人を失おうとしてるんだな、と思った。それがこれからの人生にもたらす意味が僕にはまだよくわからない。
 ただ靴をなくした足で触れる床が冷たかった。
「いいんだ。それに僕も同じだったから。幸せを目の前にしてそうなれない理由が『なっちゃいけないと思う』と『なるのが怖いと思う』のどちらかだとしたら、僕は怖がっていた方だから。だから同じ。…ううん、違う。君に倣うなら、これも『逆さまの美しさ』だよ」
 笑おう。そう思った。それが君の教えてくれたことなのだから。
「そっか。そうだね」
「うん。そうだよ」
 長かった階段を上り終えると目当ての場所に辿り着く。その場所のことを、僕たちはよく知っていた。
「それじゃあ、開けるね」
 立入禁止と貼り紙のついた扉に手をかけた君が言う。
「うん」
 絞り出す声で僕は頷いた。
 

 八月終わりの屋上は満天の星が望め、僕たちはしばらく言葉を交わさずその景色を見つめていた。暗闇を瞬く孤独な光のひとつひとつに名前や物語があるのだと思うとなぜだか誇らしい気持ちになった。そしてそんな光にもいつかは訪れる終わりがあるのだと思うとやっぱり寂しさを覚えた。
 頃合いを見て場面転換の効果音代わりにカシュッという音が響き「ここで飲むのも最後になるね」と君は小さく笑った。
「見える?あのバス停横の自販機でいつでも売ってるからね」
「ありがとう。でも買うのはもう少し涼しくなってからにするよ」
「悪くないんだけどなぁ」
 そう言って君が指差した先にはこれからも僕が過ごし、明日には君が離れていく街の景色が広がっている。
 通りは徐々に人集りができていた。
「頑張ろうね」
 不意に声がする。
「え?」
「頑張ろうね、お互い」
 振り向いた先には一番小さな指が差し出されている。
 君の手は、やっぱり綺麗だった。


 もし、と思う。
 もし、僕たちが出会ったのがこんな屋上でなく普通の教室やあのバス停だったら?もし、僕たちが楽しい時にちゃんと笑えて悲しい時にちゃんと泣けていたら?もし、僕たちが僕たちをもっと上手く愛することができていたら?
 僕たちには、どんな幸せが待っていたんだろう?
 考えても仕方のないことだ。わかってる。それでも、僕は思い描いてしまう。
 だって君のいない僕の手には、ペンが握られているのだから。


 飲み終えた缶コーヒーの口を噛みプラプラさせながら君は言った。
「私、綺麗で好きだなぁ。一瞬で消えちゃうから。一番美しい瞬間に死んじゃうから。そんな風になれたらいいな、って思う。一番美しい瞬間に死ぬことができたら、きっとすごくハッピーエンドだな、って」
 今ではないの、とは聞かなかった。その横顔は笑わなかったから。
 きっとこれからも君は生きていく。もっと美しい瞬間を求めて、ちゃんと幸せな景色を求めて。
 そして多分、僕も生きていく。
 その事実のどちらもが、わがままでも僕にはまだ、悲しい、という言葉でしか書けそうになかった。
 けれどいつか書ける。そう思う。


 始まりを報せるアナウンスが響き渡り僕たちは空を見上げた。雲ひとつなく澄み切ったそこに僕たちが過ごした頃の面影はなかったけれど、それでも僕は思い出せる。
 あの雨の日。本を手放して君の手を掴んだ日。
 君を救えたのは僕だったかもしれない。でも、これからも君を救い続けられるのは僕じゃないと知った。
 それでもよかった。一瞬でも、君とわかりあえたなら。一度でも、君と繋がりあえたなら。
 一番美しい瞬間を、君の隣で過ごせたなら。


「時間だね」
 君が優しく呟く。
 消えてく花火の代わりに残せるものを、僕は考えていた。




優しい君へ


優しい君が嫌いだった
嘘とは生きたくないから
だから黙ってた
心に形をつけないように

午後の光みたいに生温い
この幸せを壊してみたい
健気な蕾をちぎれば
醜い本当が咲いた

青になり君が歩きだす
月が綺麗ってさ 本当だったのに

言葉なんてものいらなかったのに 分かってたのに
それでも言ってしまうのは
君が君を知らないからだよ
君が綺麗って知らないからだよ

正しくなんてなくていい
どうせいつか死ぬんだから
間違いだっていい
不完全な僕らを愛したい

赤になりどこかほっとしてる
君の幸せに僕はいないだろうから

心なんてものいらなかったのに そうすれば
月の綺麗さなんて知らなくて済んだのに

優しい君へ
なにもいらないよ
優しい君へ
なにか残せたら

言葉なんてものいらないよ だから 大丈夫だから
それなのになんで泣くの
そんな優しい君がやっぱり

心なんてものいらないだろうけど きっと君は
幸せになっていいんだよ
だから顔をあげて




コトハ「幸福恐怖症」各種配信
https://big-up.style/jEcRC6UyMT

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?