『万引き家族』

『万引き家族』が大傑作だった件。

 是枝裕和がパルムドールを取るなんてこれまでの作品からいったらほぼあり得ないわけで。本作も毀誉褒貶渦巻いている気配があったので「それほどいい映画じゃないんだろうね」と、クサすつもり満載で観に行ったら、悔しいことに本当に素晴らしい映画だった。

 映画の中盤あたりで「あれ?、ここまでクサすポイントないかも」と焦り始め頭を巡ったのは、
「これこのまま突き進めるわけがなく、カンヌで評価ってことは誰か死ぬくらいのカタストロフィが必要で、そのカオスをどう持ってくるのか?」
「物語の標準を「貧困」と「家族」だけに持ってきているけれど、これを日本全体、共同体全体の問題としてどう総括するっていうんだ?」
 という2点だった。
 しかし、ものの見事にこの2点、ラストまでにすべて回収してしまって、なんでこんなアクロバットができるのかとびっくり。

 過去の日本映画のひとつひとつがそれこそ頭の中にぐるぐる回って、必死で探したのだけれど、それらのどの名画とも、『万引き家族』は似ていなかった。かろうじて似ているとすれば、熊切和嘉と大森立嗣、田中登くらいしか思い浮かばない。(押し入れの中で、ビー玉の中に「宇宙」を見る少年と少女の美しさ。それは増村保造のデビュー作『くちづけ』以来のときめきであって、そういうシーンごと、クローズアップごとの比較なら山ほどあるのだろうけれど。)
 彼らの撮るリアリズムと、『万引き家族』のリアリズムは響き合うのだけれど、しかしそのリアリズムを越えて、『万引き家族』は寓話的なのだ。リアルを追究したのに、結果的に寓話に見える映画と、寓話的なのにむしろリアリズムだとされる映画とがあるが、『万引き家族』はそのちょうど中間にあり、その立ち位置は巧妙で、非常に難解である。だから、正当に評価されないのだ。ふざけている。

(話は横にずれてしまうのだが、寓話としてこの映画がすごいのは、ある予言をしてしまっていることだ。冒頭でこの家族に参加する「彼女」の姿を見ながら、こないだの目黒区の事件を思い浮かべない観客がいるだろうか。文学や芸術は不思議なことに予言をすることがあって、予言がある作品は、神話のように見える。もちろん綿密な取材の裏付けがあってこそ、なのだろうけれど、そのレベルでも「神ってる」作品なんだよなあ、と思う。)

 まず、設定として「万引き」とは何か。
『万引き家族』というくらいだから、なんとなく、家族全員が万引きをするのだろうと思っていた。つまり、黒木和雄の『スリ』的世界観だ。プロとしての誇りを持ち、己の技術と命までを懸けた「スリ」で生きる世界。しかし、21世紀もここまで来ると、『スリ』の世界観は、もうない。違う。ヤバい。
『スリ』と比べて「万引き」の世界のなんたる浅はかさ、とクサそうと準備して観に行ったのに、観ているうちに、貧困のリアルな描き方でいうと、反対に『スリ』が否定されてしまうのだよ…。(それに気づくときは、「認めたくない」と脳細胞の80%くらいが沸騰してて、残りの20%が「名画誕生に喜べ」と言い出している段階)
 では是枝にとって、「万引き」とは何か。
 それは、生きるための手段としての「狩猟採集」である。職業としての誇りなどない。狩猟採集民のモデルケースだから、万引きをするのは「父」と「息子」のみである。もちろん、貧困家庭で現金収入を得るために女たちだってそれぞれ働くのだが、彼女たちが映画の中で食ってるのは、男が取ってきたモノがほとんどだ(服や化粧品は盗んでいるけれど)。
 狩猟採集の単位としての「家族」だからこそ、盗まれるのは「釣り竿」であり、狩猟の道具だ。(ちょっと話がずれちゃうけれど、もしカタストロフィを演出するとして、日本映画の伝統に立てば、出てくるものは拳銃でもよかった。誰かが拾ってきてぶっぱなすとか。あるいは、鉈などの刃物でもよかったはずだ。死体遺棄なら、桐野夏生はじめ、みんなこれまで包丁で切り刻んできたわけだしな。
 しかしこの映画にそれらは見事に存在しない。この家族にとって、死体や抜けた歯の「処理」は、まるでプリミティブな野生の狩猟民が獲物を屠るように、あくまで宗教的行為なのである。そして不思議なことに、直接的な暴力は一切映されない。身体への直接的暴力は少女が受けているくらいで、あとは風俗店のふたりが揃って「自傷」をするだけなのである。それらの傷も、暴力というより、なにかほぼ形式化された宗教的行為、宗教的シンボルのようなものとしか私には見れなかった。ラストの「尋問」で、少女の拳に赤い痣が映されるのは一瞬だが、明確に、したたかに、わざと、キリストの手の甲と同じように、その傷は信心の印のように刻まれている)
 さらに言えば、不思議なことに、小さいながらも庭があるのに、誰も野菜を育てないのは、彼らはあくまで狩猟採集民であり、農耕民ではないからだろう。

 では、なぜ彼らは狩猟採集民であり、農耕民ではないのか。
 おそらく設定としては「最もプリミティブな家族の在り方」の比喩としての「万引き」=「狩猟採集」という設定であっただろうと思う。
 ただ、ここで勝手に思い出すのは、こないだ勲章をもらったとある美術評論家による、「縄文時代こそが唯一純粋な日本文化である」といった評価である。普通に考えれば、弥生以降の日本が、大陸との交流の成果として果たした文化成熟にこそ、日本的なものがあるというほうが頷けるが、『万引き家族』において、このことを無理くり想起することを許されるとすれば、プリミティブの演出が、この家族を「日本文化の原点」に設定することにも、無意識のレベルで成功しているとも言えるだろうと思う。
 そしてアマテラス以降、日本における最もプリミティブな存在とされた家族は、血の繋がりということを超えて陽気に振る舞う「理想の家族」として、したたかな監督によって、あまりにしたたかに創作されていくのである。
 その過程も、ものすごい迫力で、ワンシーン、ワンシーンが、見逃せない、ものすごい熱量と圧力で語られるのがすごいのだが、そのあたりのことはほぼどうでもよくて、ヨーロッパの観客と、日本の観客の、相互にどう「解釈されうるか」の梯子の上を、危ういバランスを取りながら進むだけにすぎない。
 そう、なぜなら、クライマックスに向けて、危ういバランスは監督自身がバンバン崩し始めるからだ。問題は理想の家族像が作り上げられた瞬間に、その数倍のスピードで一気にそれを崩す見事な過程であって、それこそ、『万引き家族』の見どころなのだと思う。

 映画が終わってからあらためて振り返れば、その崩壊のカタストロフィは、当たり前なんだけれど、映画が始まった瞬間から巧妙に仕組まれ、観ている我々が気付かないだけで、巧妙に隠され、最初からそこにあった。
 いわば、幻想の「家族」を作り上げるまでの過程が、すでに寓話的なのに、そこまではリアリズム優先で観ているために、その後の「壊し方」に入り込むリアリズムの「穴」に驚かされることになる。ふと、途中で「意味」を考え始めた時、映画全体をリアリズムとしてではなく、寓話として観始めた瞬間に、調子を狂わされるといった感じで、最後まで焦点を外しまくる映画でもある。
 たとえば、「貧困層は子どもが作れない」というリアリズムは「不妊」というメタファーで示され、「怪我による解雇」というリアリズムは「狩猟採集民として失格を意味する足の怪我」というメタファーで示される。
 たくらまれてばかりなのだ。これ、リアリズムの映画じゃないんだ。
 では、じゃあ、この「家族」とはなんなのか?

 日本映画の表現において、権力に対抗する単位として、明確に「家族」のみが設定されたことがあっただろうか。家族と言えば『東京物語』だろうか。あれはどちらかというと家族の否定だろう。山田洋次にしても、「家族」のことはしつこく描いているが、それは「葛飾柴又」という互助ネットワークとフーテンという漂流民との「まぐわり」の世界であり、家族はたくさん出てくるけれど、むしろ描かれるのは「学校」や「同じ境遇を同情し合う会社の人との支え合い」などであった。
『万引き家族』がユニークなのは、すべてを「家族」という単位で切り取ったことであろうと思う。(「誘拐」はまあ、共同体の助け合いの一例のように見えるかもしれないが、あれもやっぱり、家族と家族との間の、宗教的儀礼としての「交換行為」に見えるんだよなあ)
『万引き家族』で描かれる「家族」は「家族」という単位として孤独で、世界に向けて開けているのは、見上げても花火すら見えない「空」だけだ。
 たしかにこの家族は血の繋がりという観点からすれば特殊であるので、「メンバー間において『家族なんて最初から崩壊している単位である』という諦めの元に結成された、金と心でつながった文明最初の試みとしての疑似家族」であるのだけれど、でも、まず「家族」であることには変わりがない。
 この家族全員に血のつながりがないという事実は、最初は隠され、ミステリーになっているのだが、その事実が明かされるまでに、私たちは「この人たちは怪しくはあるけれどある程度血の繋がった家族なんだろう」と信じさせられているから、それが嘘だったと分かる頃には、「野蛮だけどお祖母ちゃんを中心に、互いへの思いやりに満ちたけっこう仲がよい最近珍しい結束力がある拡大家族」という幻想に支配されることになる。
 では、まずそんな「家族」を創り上げた上で、どうぶち壊すか。是枝が映画全体で闘うのは、「家族」の構成員としてなにより外せない日本的な「父」であり、それをシャドウワークで支えるばかりでなく、家族の精神的紐帯であると幻想される「母」という虚像である。そして「家族」のみを遊離させるという描き方は、「描かれない、不在である」、という方法でこそ、外側にあるはずの「世間」という虚像とも闘っている。
 そしてなにより、「家族」を否定してみせる振る舞いは、「家族」の柱になるはずでもあり、それ自体が「家族」というシステムに支えられてきたと言える「日本」そのものこそが虚像である、と言っているように思える。
 それらはこれまで何度も芸術家なり、小説家なリ、が撃ってきた事実だろうが、『万引き家族』は問題を「家族」という単位にのみ限定することによって、それを超えて、日本のむしろ限定された近代と、己そのものを「も」撃つのである。
 たとえば、寅さん的なことでいえば、葛飾柴又があれば健康な人間は育てられる、といったコミュニティの絶対的存在と、コミュニティの良心といったものは、『万引き家族』では唯一、「祖母」と「駄菓子屋の親父」だけが象徴している。「家族」以外、外側にはほぼテレビと日雇いの親会社の正社員くらいしか登場しない。
 祖母の死、駄菓子屋の閉店はほぼ同時に訪れるのだが、そこから「家族」がバラバラに葬り去られていく。そこから、「家族」の崩壊がスタートするのだけれど、重要なことは戦争経験者である祖父母世代のコミュニティの「良心」からの働きかけによって、「家族」が崩壊していくということで、そこには何重もの「価値のネジレ」が発生しているということだ。
 少年自身が「自分は意図的に家族を崩壊させた」という告白が、この映画の最大の衝撃の一つとして設定されているのだけれど、彼が言う通り、家族を破壊するきっかけになるのは、共同体の最後の良心、駄菓子屋のジジイの垂れる教訓「妹にはやらせるな」だ。少年はごく普通の小学生よりも頭がいい(学校に行ったら国語のテストですぐ8番になる)から、父親のやっていること、言っていることの矛盾に、なんとなく気づいていた。そこで少年は唆されて父を「殺す」ことになるのだが、それを「唆す」のは泥臭い共同体の良心なのである。
 父に反発しろ。お前はお前自身になれ。その唆しは、「新しい父」になって少年を導いていくのだが、残酷にも、それは家族を切り捨てなくては「自己が確立できない」、ということの気づきとなり、核家族化した近代の日本をもう一度なぞりはじめるのである。
 むしろ、コミュニティの良心というのは、我々が積極的に破壊してきたものだ。私自身、コミュニティ、共同体の掟というものから逃げるために、「近代」を学び、模倣し、振る舞いを真似し、のし上がったと思っている。しかしその陰には、共同体の中でしか存立しえないものがあるということは認める。そして共同体の庇護の中でしか生きられない人間は、必ず一定数いるのである(それらの人々は、共同体の甘ったるい精神とは一見無縁のように見えるリリーフランキーと安藤サクラの「夫婦」が体現しているものでもある)。
 ある者は一生懸命勉強し、海外に行き、東京で生きていくために、いろんなものを背後に切り捨ててきた。そうやって日本全体が目指してきた「成れの果て」にあって、切り捨てられてきただいじな「精神」を「誰かが捨てたから拾った」のが本作で描かれる家族たちなのである。
じゃあ、とそもそも考える。この映画がよって立つ「精神」や「価値観」とは何か?と振り返った時に、宙ぶらりんになる。
 是枝監督の示す価値は何重にも捻れ、捩れ、誰が何なのか、私たちは味方なのか敵なのか、すべてを宙ぶらりんまで破壊し尽くすのだ。
 最後に、母は「もう私たちではダメなんだ」と言う。しかし、父は息子を諦めきれない。だから、バスで追いかける。しかし息子は、不格好に追いかける父を、ただ哀れをもって見つめるだけだ。
 少年のやったことというのは、私が故郷を捨ててきたのとほぼ同じことなので、よくわかる。少年はこの映画がほぼすべての時間をかけて築き上げてきた「家族っていいな」をぶち壊す。
 でもその破壊への衝動に着火したのは共同体の良心だとすると、「血の繋がりにとらわれない家族の絆」を称賛してきたはずの監督が、手のひらを反すように、能力のある少年にあっさりと「愚かな父」を捨てさせることの、このねじれ。
 また、この映画の中に鏤められる「象徴」はたくさんあって、たぶん拾いきれない。父と息子しか万引きをしないことの意味と、そこに少女が参入することへの戸惑いとは何か。
 もっともわかりやすいけれど、忘れてはならない象徴は、「足」だ。リフレインされる「足」の怪我。それは「父」と「息子」のものであり、さらに祖母は自らの足を覆い隠すために自ら砂をかける。その足は、左右どちらの足だったか。
「娼婦」の左の太ももに落ちる一粒の涙は、不妊の象徴であるはずなのだけれど、そのシーンにおいて結ばれるのは、この映画の中でもっとも豊穣な精神と精神の関係性なのである。
 イニシエーションとしての「断髪」の前後に、少女は何をされたか? 「名づけ」とは何か? それらの意味とは?
 ここまでしつこく寓話的な日本映画を、私は思い起こすことができない(たしかにロマンポルノは何度もやった)。私が気付いていないだけでいっぱい存在するのかもしれないけれど。

 そしてラスト。最後の最後、ラストシーンに映る「彼女」の目は虚ろだが、しかし最後の瞬間、確実に何かに焦点が合っているように見える。
問題は、ここで彼女が何を見つけたか、ということである。
 その解釈は見た人の数だけ無限であるし、私は最初、彼女が見つけたのは「父」だろう、と思っていた。
 しかし、忘れられがちだけれど、そのいくつか前のシーンで、もうひとりの別の「彼女」が、「ある場所」に出向き、その居住可能性を確かめていることを、やはり忘れてはならない。そしてその「ある場所」とラストシーンの「彼女」がいる場所は、ごくごく近所だということは、観客すべてに知らされている。ということは、「彼女」がラストシーンで見つめたのは、もうひとりの「彼女」だった可能性がある。
 つまり、あれが彼女「たち」の目が合った瞬間だと仮定すれば、彼女たちは彼女たち自身に運命づけられた未来を、延々となぞることになる、という可能性が、最も高い。
 そう考えれば、「彼女」ともうひとりの「彼女」が同時に鏡でに映るシーンで象徴され、予言されたように、「彼女」はラストシーンで、娼婦になるのかもしれないのだ。
 そう解釈するならば、この映画は紛れもない悲劇となるに違いないのだが(限りなく溝口健二的世界観だ)、でも見る人によっては、このラストは、少女らの未来は原始の太陽が昇るように、溌剌とした日本の起源になるんであーる、という、喜劇的な結末をそこに観ることもできる。
 こんなに見事なラストを持った映画を私は他に知らない。
 何重にも何重にも、是枝は日本社会を否定し、近代を否定し、日本文化などというものの存在を否定し、この映画全体をつうじて訴えているように見える家族や絆などというぬるいものを否定し、自分自身にいちばん鋭い刃を向ける。すると、結局は、この寓話の結論は「世界全体が娼婦になる」、そんな映画かもしれないのだ。
 娼婦とは何ぞや。それは説話に過ぎないのかもしれないけれど、「世界最古の職業」とされる、最もプリミティブな存在ではなかろうか。
 そしてそこに見る「べき」ものが、希望なのか、絶望なのか、判断することができない。ただし、喜劇にせよ悲劇にせよ、このラストシーンから始まる世界、は確実に存在する、という意味で、ポジティブではある。
『万引き家族』が射程に入れているのは、日本文化、日本という文明に対する憧憬を否定しきれないアンチの表明なのであって、(いくら自分自身を撃つとしても、アンチだということはインタビューで自身がちゃんと表明しているのが偉い)乱暴な物言いをすれば、もし『万引き家族』のショットの合間合間にニホンザルの映像が挿入されたら、それは『ディーパンの闘い』になるのであって、この社会で押し潰された人間の死体が挿入されるなら、それは『サウルの息子』になるのである。
 しかし『サウルの息子』が旧約聖書とユダヤの伝説に依拠して成立した映画であるとすれば、『万引き家族』は何に依拠しているのか?
『万引き家族』を観て私たちがなんとなく不快になるのは、何も依拠するところがないからである。『古事記』と『日本書紀』に依拠するのか? 否、である。
 そして紛れもない「オリエンタリズム」の香りによってカンヌでは評価が高まったはずで、ならそれはやはり「私たちの中心には何もない」ということなのではないだろうか。
 その意味で、日本は完全に否定されたのだ。
 だから、その意味で安倍晋三がこの映画をガン無視したのは、無意識のうちに顔面に糞を塗りつけられたことが、なんとなく分かったからなのだろう。その皮肉はむしろ、『パリ20区、僕たちのクラス』に感じたものに非常によく似ているとも感じる。
 この映画は世界の映画史を変えはしないが、確実に日本映画史は塗り替えるし、『万引き家族』以前と以後というエポックとして燦然と輝き続ける一個の名作が誕生したのだと思う。
 余談だけれど、『万引き家族』に対するもっとも悪辣で馬鹿らしい批判の筆頭は、「万引きはいけない」「誘拐はいけない」という批判だ。
 では、(鹿児島にルーツがある方、ごめんなさい)こないだ鹿児島に行ってびっくりしたけど、鹿児島があんなに立派なのは、もちろん交易もあるけれど、琉球を「万引き」したからでしょ? 南北朝鮮を「万引き」したから、戦後日本の経済成長があったわけでしょ? 福島を「万引き」したから、東京に電気が来ていたのでしょう?
 これまで是枝の映画では数々の的外れの批判を受け続けてきただけに、「万引き」はいけないことだと、ありとあらゆる形で映画の中で言い訳をしているのに、それにもかかわらず「万引きを助長させるなんてなんたることだ」と言われてしまうというのは、かわいそうとしか言いようがない。
 安藤サクラに「私たちは捨てたのではなく拾ったのだ」とまでハッキリ言わせているのに、そして池脇千鶴のそれに対する見事な「は?」という冷たい返事まで入れているのに、それでも大多数は、安藤サクラにではなく、池脇千鶴に自己同一化するのだろう。あんなに安藤サクラを貶めているのに、痛々しくガンを飛ばし唾を飛ばし、「自分で産めないから、産んだ女が憎らしいんでしょう」とまで言われて、それに反応して涙まで流させているのに、「この人は罪を犯して捕まったけれど、悪い人じゃないんだなあ」という彼女への同情はみな抱かないのだなあ。彼女たちは殺人者であり、犯罪者であるのだけれど、でも、彼女たちは「物語の中の登場人物」であり、実在の万引き犯ではないのに、フィクションの実在しない人間であるのに、すべての免罪符を剥奪されてしまうのだ。

 森崎東はまだ映画が観られるのかなあ。黒木和雄や大島渚や、いろんな監督に捧げたっておつりがくる。
すごい映画ができたものだと思う。(2018年7月6日記)

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