堂園昌彦の歌集『やがて秋茄子へと到る』試論・精読2022


短歌を読む喜び、というものがある。
喜びの内訳・要因は、短歌側にとっても読者側にとっても千差万別でありケースバイケースであるが、歌集『やがて秋茄子へと到る』には、ある種の極端さが過多にある。
ある種の、詩情のようなもの。ちなみに叙情や抒情は、あらわす行為に対して使用されるのだとすると、叙情・抒情での極端さもあるにしても少しズレがあるように思う。
ここでいう詩情のようなものを、いったん〈それ〉と表記したい。
とはいえ歌集『やがて秋茄子へと到る』を読みながら、詩情、あるいは叙情・抒情とは何か……というのを考えもする。考えるに、

①あくまで〈それ〉は対象側にあり、対象側にのみあり続けることが重要で、作中主体〈私〉側・読者側には別の情感が生じる場合
②既に作中全体が〈それ〉一辺倒で、読者は外部から一首=〈それ〉を受容する場合
③対象側から移ってきたことで、こちら側でのみ〈それ〉になる場合

のバリエーションを想定しているとき、歌集『やがて秋茄子へと到る』は③の傾向で読みたくなる。し、そもそも③は歌集『やがて秋茄子へと到る』から思ったことでもあるけれど。だから、この文章は③に偏ったところに言及していきたい、と思っている。

   ○

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

「やがて秋茄子へと到る」

死ぬという事実があることへの疑問の「どうして」なようでいて、いつか死ぬことは既に分かってはいる上での「どうして」な気がする。下の句「どうして死ぬんだ/ろう僕たちは」の「死ぬんだ」によって、思うと思う。それに、この〈僕たち〉に含まれない人(読者)はいない、いないと徹底するためにというわけではないとしても、疑問としてある「どうして」の解明をしたり気持ちの折り合いを付けようとしたりはしていない。
つまり〈私〉なりの解明や〈私〉にとっての折り合い、のような私性のニュアンスで作中主体〈私〉を機能させてはいない。
いつか死ぬことのみが「光らせて」の一瞬にある一首だ……と、基本的には解釈しているが、疑問の解明をしたり折り合いを付けようとしたりはしていないというのは歌集全体を通しての印象でもあり、歌集全体に「死ぬこと」への諦念が通底しているように思う(私に興味あるのは、どのような諦念なのか/なぜ諦念があるのか……ではなく、諦念は諦念として、なぜ短歌をし歌集にしているのか/どのような歌集にしているのか、にある。が、ここで〈堂園昌彦〉の作者論のようなところまでは及ばない)
ただ、いわゆる「死」に対する心持ちはケースバイケースかとは思うが、ここでは「どうして死ぬんだろう」というムードへの、巻き込み/巻き込まれがある。

歌集『やがて秋茄子へと到る』の短歌の多くには、作中主体〈私〉が存在し、一首内に設置されている。一首内に位置する〈私〉に移って初めて〈それ〉が〈それ〉になる。
あくまで〈私〉内で〈それ〉が〈それ〉に変換されるような。
それでいて〈それ〉を感受している〈私/作者・堂園昌彦〉を受容する読者の私、という視座にはならず、移した〈私〉の地点でのみ〈それ〉が〈それ〉になるように、手続きが取られている。
つまり、一首ごとにおける〈私=読者の私〉の視座が重要になる。
分かりやすい一例として、表題歌の〈僕たち〉に共感・共鳴できる読者は、よりビビッドに〈私〉の視座を得られ、よりダイレクトに〈それ〉が自身の内にら生じるのではないかと思う。

以降は、一首内で〈それ〉を、どう〈私〉に移し変換しているのか……を中心に読み書きしていきたい。

   連作「やがて秋茄子へと到る」

歌集の冒頭のほうにある〈秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは〉までの短歌に、

美しさのことを言えって冬の日の輝く針を差し出している

ゆっくりと両手で裂いていく紙のそこに書かれている春の歌

「やがて秋茄子へと到る」

のような、対象への〈私〉からの要請やアプローチが見受けられる。
引用した二首目は、あるものをあるようにする意識が表明されている。
書く、のではなく、書かれている。
無意識や自動筆記によってあるのだとするような場合もありつつ、しかし「裂いていく」時点で、あらかじめ〈春の歌〉があるのは分かっている感じ。だから〈私〉がすること、や〈春の歌〉を得るためにできることは、正確?に「裂いていく」ことだけ、なのだろう。
同時に〈ゆっくりと両手で裂いていく紙のそこに書かれている春の歌〉と書いている作者がいて、この作者は意識的に書いている。それでも〈春の歌〉の内容は分からず、ただ〈春の歌〉がある一首。あるいは予告されている〈春の歌〉だ、だとすると、ここで内容は分からないのは当然でもある。

振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う

「やがて秋茄子へと到る」

対象にとっては無い〈それ〉を移してきて〈私〉内でのみ〈それ〉を受容・消費する場合……と言い切って、続けるが……私物化に近く、暴力性や暴力となりうる。もちろん①や②の場合でも、それぞれに、それぞれの暴力があるわけだけれど。
この一首によって作者・堂園昌彦が、自身の暴力に自覚があるとして。暴力の自覚があるからといって暴力を行使していいわけではないが。この一首があることで、暴力を行使していいということにはならないが。それでも動機や目的ありきで、どうしようもなく行使してほしい気持ちはあるが。
この「べき」というのは、誰にとっての「べき」なのか……
しかし読者の私は、堂園昌彦が行使した暴力の功罪の功のみを受容できる。功のみを受容できるから、たのしむ(ニュアンス)ことができるという事実はある。し、それは「書く」行為に限られたことではないが……。

居酒屋に若者たちは美しく喋るうつむく煙草に触れる

「やがて秋茄子へと到る」

この〈若者たち〉にとって〈それ〉は〈それ〉ではなく、しかし〈若者たち〉から移してきた〈私〉にとっては受容できる〈それ〉がある。
対して〈若者たち〉の、喋る/うつむく/煙草に触れる……の内容や経緯は、先に〈若者たち〉への「美しく」という〈私〉の私感によって外部から〈若者たち〉を視座する〈私〉には、分からない。
分からないってことが大事、なのではないかと思う。

春先に光の膝が影を持つ触って握る君の手のひら

寒くなる季節の中で目を開けてかすかな風景を把握する

「やがて秋茄子へと到る」

歌集『やがて秋茄子へと到る』の作中主体〈私〉は、ほぼ直立で、五感のなかで視覚情報を圧倒的に優位にしている。という私的印象を持っていたけれど、ふつうに接触もするし移動もする。

   連作「いまほんとうに都市のうつくしさ」

きみは海に僕は森へと出かけてはほこりまみれのバスを見に行く

静かなる夜更けの駅にあらわれて夕暮れの歌うたうわかもの

「いまほんとうに都市のうつくしさ」

別々の場所に出かける。出かける目的は「ほこりまみれのバスを見に行く」ことなとき、別々の場所に各々の「ほこりまみれのバス」があるのだろうか……あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
ないというか、あるかどうか分からない場合。目的が「見に行く」のみに、すり替わる。
この一首の妙が「出かけては」の「は」のニュアンスにあるとすると、定期的に繰り返されている営みなのだろう。
なんにしても「出かけて」と「見に行く」の重複とズレの感じがある。
おそらく同じ場所から別々への「出かけて」と、おそらく別々のルートで「見に行く」同じ(同一とは限らない)バス。から、おそらく同じ(同一の)場所へと帰ってくる。別々に、存在するのか分からない「ほこりまみれのバス」を探している。探している、というニュアンスで「見に行く」のだとすると「ほこりまみれのバス」は、ほとんど〈それ〉そのものなのではないか。
引用二首目にもズレがあり「夜更け」なのに「夕暮れ」という、まぁ全然ありえないことではなくて、だけど、たぶん時間の巻き戻しの感じがある場……に思う。なんというか「あらわれて」に妙があるようで、突然〈わかもの〉が現れて歌い始めるかのような……と思うのと同じくらい〈私〉も「あらわれて」いる、のだけれど〈私〉は、ずっといたか、同時に「あらわれて」いるかのような感じもする。

光から雨がこぼれる昼過ぎの風鈴市へ急ぐ主婦たち

「いまほんとうに都市のうつくしさ」

主婦たちが風鈴市へ急いでいる。
急いでいるのは、もともと風鈴市に行きたいというよりは、雨が降り出したからだろう。風鈴市に屋根があるのかどうか、とはいえ風鈴を設置するには屋根が必要ではあるが。なんにしても、いち早く風鈴市に着きたくて急いでいる、ように〈私〉には見える。
表現としての「光から雨がこぼれる」には、いささか過剰さがあるようには思う。けれど描写としては順当と言えば順当すぎる説もあり、こういった〈光〉という語を順当に扱える力が〈堂園昌彦〉にはある。

   連作「本は本から生まれる」

まぶたからまぶたへ渡す冬の日の凍り付いてるすてきな光

「本は本から生まれる」

それにしても「すてきな」という装飾。
過剰さに過剰さを加えたような……と思うが、しかし「すてきではない光」が念頭にないのかもしれない。なくていいけれど、ないならなおさら「すてき=光」では?
すてきな光……すてきではない光……光……凍り付いてる光……
ところで一体、何を渡されているのか。
渡しているのは、すてきな、いいものだと思っているのは分かる。
渡され方も、よく分からない。
なんというか感覚的なことが為されているようで、けれど身体が強張るニュアンスの「凍り付いて」ではないだろうときの、極めて即物的な凍り付いてるすてきな光……?
そんなこと言い始めると、たとえば「夏の日の凍り付いてる」何かがある……?しかし、冬の日と凍り付いてるの近さ……など、特定は限界じみてくるかも。
特定し切れない、煙に巻かれたような、けれど良質な渡されをされているような、なのは分かる。

揉め事をひとつ収めて昼過ぎのねじれたドーナツを買いに行く

「本は本から生まれる」

たとえば「昼過ぎの」ではなく「夕方の」ねじれたドーナツではダメなのか、みたいなことを思う。
というのも歌集『やがて秋茄子へと到る』には、こういった時間指定は多く、常套手段のよう。
初句の「揉め事」と「ねじれた」の親和性を鑑みるも、いったんの収まりのところが一首の地点だろう。この一首は、まだ「ねじれたドーナ/ツ」を手にしていない。
もしかしたら「ひとつ」のほかに、いくつか〈私〉に関与する揉め事があるのかもしれないが、わざわざ「ねじれ≒揉め事」を買いに行くという歌意ではないとは思う。

ひかりまばらな壁の震えを知るためにコンクリートの窪みに触る

「本は本から生まれる」

このとき〈私〉にはモルタル壁に「ひかりまばら」が視えること、が示されている。さらに、あらかじめ外部によって「震え」のあることが教えられている。とはいえ、さほど特別な気づきではなく、言っていることそのものよりかは、言い方に特別さがあるように思う。
一首内の「壁」と「コンクリート」は同一のものだと読んでいるが、しかし「窪みに」だとするとモルタル壁とは限らないかもしれない……たとえば「凹凸に触る」であればモルタル壁か、と、もっと思えそう。それはそうだとしてもモルタル壁だからどうってことは、ない。
重要なのは「窪みに触る」している〈私〉の心情なのではないか。壁面から、触る・触覚によって〈私〉内で「知るため」から実際に知ることで〈それ〉を顕現できる予感がある。

噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち

「本は本から生まれる」

三句目にある「冬晴れの」での転換がある一首。
初句「噴水」から結句「小銭たち」で視界がズームアップしていて、同時に「涸れ→濡れ」の部分に推移がある。
あいだにある「冬晴れの」は小銭たちにとって噴水よりも遥かに広い部分だけれど、さながら〈私〉の視界の再調整に思う。
推移ーーあいだ、に〈私〉が「そこ」まで近づくための移動がある。
推移ーーあいだ、に読者は自身の日常感覚から、非日常・作中世界・詩的への転換の地点がある。
この二つの推移が交錯している一首だ、と思う。

太陽が暮れてしまえばうつくしい文章を書かなくてはね、指

「本は本から生まれる」

この、結句に置かれた〈指〉は、厳密には「、指」は、呼びかけのメッセージ「太陽が暮れてしまえばうつくしい文章を書かなくてはね」を受け取る対象になる。
とする場合、
意識としての「太陽が暮れてしまえばうつくしい文章を書かなくてはね」となるだろう、無意識の領域としての「指」とするなら。
しかし「太陽が暮れてしまえばうつくしい文章を書かなくてはね」という文字列を出力するのも、指ではないか……?と思うときの、しかし「太陽が暮れてしまえばうつくしい文章を書かなくてはね」を無意識からのとすると〈私〉の意識の及ぶ「指」となる。
つまり、呼びかけのではない場合、
指に「太陽が暮れてしまえばうつくしい文章を書かなくてはね」の、次の文字列を要求する「、指」ではないだろうか……。
なんというか「太陽が暮れてしまえばうつくしい文章を書かなくてはね」と「指」の他に、もう一人いる……ような気がする一首。

君は夢中で道路の脇のカタバミを見ている 本は本から生まれる

「本は本から生まれる」

すなわち〈それ〉は〈それ〉から生まれる……この一首の〈本〉は〈君〉と同一化されているのではないだろうか。
見ている〈私〉から〈君〉は生まれる、のではなく〈君〉から〈君〉は生まれる。あるいは〈君〉から〈私〉は生まれる……?厳密には〈君〉から〈それ/を得た/私〉は生まれる?
道路の脇の〈カタバミ〉から移ってきた〈それ〉が〈君〉にあるのだろう。そして〈君〉から〈私〉に移ってきた〈それ〉があるのだと思う。
というようなことを、この一首から思う。

   連作「暴力的な世界における春の煮豆」

震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる

「暴力的な世界における春の煮豆」

印象としては「震えながらも」が「ダンス」と「食べる」どちらにも掛かっていながら、然るべき時間経過がある。
というのも、二度ある「繰り返し/繰り返し」な、一度目は「ダンス」で刹那的/二度目は「君と煮豆を食べる」で継続的の、なのではないか。

君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす

「暴力的な世界における春の煮豆」

例えば、先ほどの一首〈君は夢中で道路の脇のカタバミを見ている 本は本から生まれる〉と同様と思うのは〈君〉が「しゃがんで」いる、ようなところ。
とはいえ、こちらは「しゃがんで」と明記されている。明記といえば「ほのめかす」のほうの、歌集『やがて秋茄子へと到る』にある稀さ。
つまるところ〈君〉に「ほのめかす」意志があるのか、どうか。あくまで〈私〉が「ほのめかす」している〈君〉なのだと視ている、のではないか。
ただ「ほのめかす」だけで、直接「桜の存在」を見せられているわけではない。だからこそ〈私〉にとって見出しの可能な、ほのめかしかと思う。

過ぎ去ればこの悲しみも喜びもすべては冬の光、冬蜂

「暴力的な世界における春の煮豆」

途中までは、いわゆる「喉もと過ぎ去れば熱さ忘れる」と、ほぼ同義・ニュアンスかと思うけれど、すべて一言「すべては」にしてしまう。

冬蜂の死にどころなく歩きけり

/村上鬼城

冬蜂を冬の光と比喩しているのではなく、冬の光を冬蜂と比喩している?
とはいえ「すべて」には範囲があり「この」と指定されている「悲しみも喜びも」だと思う。
すべては〈私〉にとって冬の光だと、冬の光になるのだと、過ぎ去る前から定めている。
同時に「終わりよければすべてよし」という含みも感じるが、ここにあるのは「暴力的な世界」の痕跡か。
過ぎ去れ「ば」という仮定、しかし一切は過ぎ去るものだ……という諦念がある今なのだとも思う。

   連作「色彩と涙の生活」

時系列とするには一側面的だとしても、メンタルの変化における推移が、もっともある一連。

いくたびも心の中のゴーギャンに色彩を問う色彩は咲く

「色彩と涙の生活」

この一首、結句の「色彩は咲く」の「は」が気になる。
着色前の塗り絵に突如、色彩が生じたような印象がある。それは「心の中のゴーギャンに色彩を問う」ことによる「咲く」だからか、それにしても「いくたびも」の頻度が。問うたびに「咲く」のか、それとも「いくたびも/問う」ことで遂に「咲く」なのか……
とはいえ、初句「いくたびも」は「問う」と「咲く」の両方に適応されている場合、の〈私〉には「問う/咲く」はセットだし、セットで「いくたびも」あるのが分かる。

砂浜で君はまぶしく年老いる春のマフラーきらきら濡れて

「色彩と涙の生活」

またしても(?)すてきな装飾が過多な一首だ……って思う。
装飾のないノーマルな名詞は「砂浜」のみだ、って思うとき、逆に一首の全てが「砂浜」に収縮されていく感じもある。
思い出のなかの、あの「砂浜」の、みたいな……

白薔薇がかがやきながら揺れている記憶を漱ぐときのくらがり

「色彩と涙の生活」

白薔薇≒記憶
かがやき≒漱ぐ
揺れて≒くらがり
で、一首内に要素がセットになる前後がある……と思うとき、結句の「くらがり」が一首の真髄部だろう。
なんというか「くらがり」の手前に「揺れている」があって、その印象から「揺れている」ところから「くらがり」を垣間見る。というか「揺れている」越しに「くらがり」を見出だせるような一首だと思う。

眠るときいつも瞳に降りてくる極彩色の雨垂れ、誰か

「色彩と涙の生活」

極彩色の雨垂れと(極彩色の)誰か、が降りてくる場合/降りてくる極彩色の雨垂れ、によって呼びかけの「誰か」が生じる場合……が、あるとして、おそらく「降りてくる」のニュアンスが重要なのではないか。
降りてくる、というか、降りてき方/降り方。
いつも瞳に降りてくるのは、つまり目蓋だ……とするのは野暮かもしれないが、しかしタイミングとしては。

冬にいる寂しさと冬そのものの寂しさを分けていく細い滝

全世界の虚構の音楽室にある木琴をいま鳴らす力を

「色彩と涙の生活」

引用の一首目、一首にとっての〈細い滝〉が、つまり歌集『やがて秋茄子へと到る』における読者にとっての〈堂園短歌〉そのものなのではないかと思える。
とすると、
二首目の一首内における〈鳴らす力を〉という期待は、読者の私にとって〈堂園短歌〉あるいは歌集『やがて秋茄子へと到る』に対する期待値と極めて近いのではないかとも思える。

薔薇色の食事を言うから君はただその品目を書き留めていて

「色彩と涙の生活」

即物的な〈食事〉ではなく、言葉上の〈品目〉であり、実際に食することができるわけではない。それに〈薔薇色〉とされているのみで、具体的な〈食事〉が共有されているわけではない。食べ物ではなく〈食事〉であるのは、モノではなく行為する〈私〉たちの場だとすると〈食事〉と〈品目〉の親和性は分かる。
あるいは「品目を書き留め」る行為が〈食事〉と同義だ、とも思う。
しかし歌集『やがて秋茄子へと到る』内で〈私〉から他者である〈君〉への呼びかけ・要請は、まだ珍しいのではないか。

町中のあらゆるドアが色づきを深めて君を待っているのだ

あなたたち春の野原に飛び出てはつくしを摘んでいくあなたたち

「色彩と涙の生活」

受け入れ体勢がある、のだと思われる「あらゆるドア」は意思表示として「色づきを深め」ている、らしい。この一首で〈君〉に、そう〈私〉が伝えている。
二首目も〈私〉からの提示・提案の伝えがある、ように思う。
どちらも他者を、外へ出す/解放するような……そんな印象。というのも「飛び出ては」の意志が〈あなたたち〉に所在するのかが、どちらかというと〈私〉側にあるような、そんな印象。

千変万化の君の涙の冷たさで晩夏を膨らませ続けよう

残像のあなたと踊り合いながらあらゆる夏は言葉が許す

「色彩と涙の生活」

膨らませ続けた結果としての〈晩夏〉の最新版?を受容できるのは誰なのか、膨らませ続けるのは〈君〉で、あくまで〈君の涙/の冷たさ〉を原動力として〈私〉は何を受容しようとしているのか……
とはいえ、千変万化。
目的?が「晩夏を膨らませ続けよう」に集約されている、として、どこから集約が為されるのか……千変万化から既に「晩夏を膨らませ続けよう」に向いているのか、少なくとも「涙の冷たさ」の段階は集約の一端なのではないか。
ここで〈私〉が、秩序の司りをし始めているような印象を受ける。
けれど一体、何だろう?
一人称の区別〈君→あなた〉があるが、それにしても〈私〉は〈夏〉側なのか〈言葉〉側なのか。あるいは〈夏〉と〈言葉〉にとって第三者な〈私〉なのか……
それには〈残像のあなた〉と〈私〉の二者(の側)における関係性(少なくとも〈私〉から〈あなた〉への感情)如何に拠るところがあるのではないか。

   連作「それではさようなら明烏」

春の船、それからひかり溜め込んでゆっくり出航する夏の船

「それではさようなら明烏」

季節を内包する〈船〉という装置。
どのような〈船〉を想定したらいいのか、例えば〈春〉の特産品を港に持ってきて、港に停泊する間に〈夏〉の特産品を搬入し出航する……そういう期間限定な、過渡期ってある。というのを感覚的に、分かる。というか、この一首で思い出せる。
だとして〈ひかり〉の出どころ。
ここまでの歌集『やがて秋茄子へと到る』や歌集の読書時において〈船〉は外部的な要素となる傾向があったけれど、ここで〈私〉が港のニュアンスであり〈ひかり〉の出どころだと読みたくなってくる。
し、そのような歌集内での転換のタイミングでもあるかとも思う。

曇天に光る知恵の輪握り締め素敵な午後はいくらでもある

「それではさようなら明烏」

ここまで言わなくても……や、ここまで言われても……と、思うけれど
ここまで言わないとなのか……とは思う。
思うけれど、どの部分になのか……おそらく「いくらでも」か、あるいは「素敵な」か……
一首としては「曇天に」の範囲指摘に妙がある。
空、上空で「光る」かのようで「光る」アイテムそのものは、握り締める手元にある。
なんというか、心理的ニュアンスとしての「曇天に」だろうとき、の一首の真価があるのではないか。

冷えた畳に心を押し付けているうちに想像力は夕焼けを呼ぶ

「それではさようなら明烏」

にしても「冷えた」の状態について。
順当さとしては「冷えた心を畳に押し付けて」も、ありえるとは思う。
だとすると(何かしらの原因によって)冷えた〈畳〉を〈心〉を押し付けることで暖めている、とも思う。
あるいは順序によっては〈冷えた心〉を押し付けることで〈畳〉が「冷えた」状態になる?
それにしても「想像力」の所在は〈心〉ではなかろうか。
先ほどの「曇天に」と同じニュアンスでの「冷えた畳に」とも読める。

夕暮れに齧る林檎の噛み跡のあなたの感情は担わない

「それではさようなら明烏」

なんか急に突き放すじゃん、って思うけど。スタンスの、まっとうさがあるのは分かるけれど。
いやはや。
そもそも「齧る/噛み跡」は〈あなた〉に因るものなのではないか。とすると「担わない」の主格は〈林檎〉だろうか。

   連作「季節と歌たち」

透明な涙が胸に湧き出して目から零れるまで藤が咲く

君もあなたもみな草を見て秋を見て胸に運動場を宿した

「季節と歌たち」

引用の一首目は「藤が咲く」しているあいだ、なのだけれど、一首によると「透明な涙が胸に湧き出して」から「零れる」まで。だとして、明記されている「目から」の「から」は別の意味での「から」で、だから「藤が咲く」のは「目から零れるまで」の、から/まで、ではない。いつからなのか不明確な、いつのまにか「藤が咲く」なっていたかのような(とはいえ「透明な涙が胸に湧き出して」の過程は認識しつつ、だからこそだと思いつつ)感じがある。
引用二首目は〈君〉や〈あなた〉の見本や手本として〈私〉が「草を見て秋を見て胸に運動場を宿した」している、のではないか。
どちらも「胸に」という胸中のゾーンがあり、どちらも胸中のゾーンに終始してはいないが、どちらも胸中のゾーンに出現する景(藤・運動場)がある。

遠くから見ればあなたの欲望も薔薇のよう抜け出した図書館のよう

「季節と歌たち」

遠くから見れば、以降「のよう」で並列されている〈あなたの欲望〉への二つの比喩。
薔薇のよう/抜け出した図書館のよう……の二つには重なる部分がある、として
一緒くたで視るべきか、あくまで別々の二つのパターンとして視るべきか。
それにしても「欲望「も」」とされているときの、欲望以外の何が含まれての「のよう」なのか……
重なるにしても別々にしても「抜け出した図書館」とは……?
考えるな、感じろ。
と言うのなら、それまでではあるかもしれないけれど……

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

/塚本邦雄

例えば、本当に脱出したとして、脱出以後の〈日本〉から消えるものと残るもの……この〈日本〉のニュアンスでの〈図書館〉だとすると、一首の〈図書館〉は箱物の〈図書館〉だと思うけれど、もともと〈図書館〉の内部要因でないと「抜け出した」にはならない。
あるいは、
現実の多くの〈図書館〉は公立だ、という前提で、市町村などの公的範囲から「抜け出し」てきた〈図書館〉の場合?

それから、初句で仮定されている「遠くから見れば」は〈欲望〉は近くから見ても〈欲望〉ではあると思うけれど、比喩の二つは遠くから見ないと生じない。

遠目にはキッチンだけど菜の花が地平線まで咲き乱れてた

/我妻俊樹

たとえば、この一首での「遠目には」では「キッチン/菜の花」の二つが「実際/虚像・比喩」で分けられている。とはいえ我妻短歌は、キッチンが実際のなのか菜の花が実際のなのか判別しづらい。というか「遠目には」で区切るか「遠目にはキッチンだけど」で区切るかで、それぞれに変わる。

堂園短歌の場合、近くから見たら実際のところ「あなたの欲望」なのは〈私〉は分かっていて、その「あなたの欲望」を遠くから見れば「薔薇のよう」であり「抜け出した図書館のよう」である……としているのは分かる。
我妻短歌は〈私〉にとって外向きに、堂園短歌は〈私〉向きに、力学がある。
遠くから見れば、を重要視する〈私〉は「あなたの欲望」と距離があり、距離があることによって「あなたの欲望」から〈それ≒薔薇のよう/抜け出した図書館のよう〉を見出だし〈私〉内に〈それ〉として生じる。

   連作「感情譚」

生きるならまずは冷たい冬の陽を手のひらに乗せ手を温める

「感情譚」

一首における「なら」という仮定。
そして「まずは」という、生きるかどうかの選択の地点が0ベースにある。ところから、の一首かと思うけれど。
この「冷たい」と「温める」の位置関係……歌集『やがて秋茄子へと到る』には、寒暖や冷温に関する語彙が多く見受けられる。けれど「冷たい」と「温める」は、冬の陽/手、それぞれ別の要素である……とはいえ、感温し判別しているのは、同一の存在〈私〉だろうけれど。
なんというか、冷たい/温めるが一首内で同化する感じ。それから一首内が、冷たい/温めるになる感じ。

燦々と月の光の差す道で僕が自分に手渡す桔梗

僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る

手は冷える心は冴える一月のはかない水が川面を満たす

「感情譚」

引用一首目、一首内に〈私自身=僕〉を、巻き込む/巻き込まれる……感じが強くある。
引用二首目の「そこ=海沿いの町」の前半/後半の繋ぎ、繋ぎ方は素朴でありながらゾッとする。このゾッは、怖さと嬉しさの半分ずつ。
この嬉しさは、私が〈短歌〉を読む喜びの一つに近い。
引用三首目、手(外)/心(内)の別で、別々(冷える/冴える)だけど関連がないわけではない状態が一首にある。とすると、水/川面の別と関連も同様っぽく気になってくる。

出会いからずっと心に広がってきた夕焼けを言葉に還す

「感情譚」

この〈夕焼け〉は、もともと〈言葉〉のもの。つまり〈言葉〉から〈私〉が借りてきた〈夕焼け〉だ。だとして、その還しかた……そもそも借りてきたという認識が〈私〉のエゴである可能性、とすると〈言葉〉に還すというのも〈私〉の押し付けやエゴである可能性……それにしても「ずっと」の範囲指定の的確さを思う。

海沿いの秋の護岸は冴え渡り生きるほかないことを伝える

祝祭の予感を胸に春の影重ねてさらに濃い影を呼ぶ

「感情譚」

ここまで、実は「死」に対して悲観的だったのではないか……とは思いはしつつ、実際ずっと歌集『やがて秋茄子へと到る』には〈涙〉がーー語だけでは喜怒哀楽の、どの要因なのかの諸説はあるにしてもーーある。
厳密には「生きること」への悲観で、生きることへの悲観の原因の一つに「死」があるということか……とも思う。

   連作「彼女の記憶の中での最良のポップソング」

君がヘリコプターの真似するときの君の回転ゆるやかだった

「彼女の記憶の中での最良のポップソング」

君がヘリ/コプターの真似/するときの という句切れ、が一首内の「回転」に寄与する度合いは大きい。
同じくらい、現在形の「真似するときの」だからこその結句「だった」が過去形・回想であることが重要な一首。

   連作「すべての信号を花束と間違える」

行き過ぎる記憶の中で海風はおでこに塩をまぶしていたり

「すべての信号を花束と間違える」

たまにある〈塩〉モチーフのうちの一首。

いつか詩がすべて消えても冬鳥のあなたに挨拶を残したい

「すべての信号を花束と間違える」

この一首では〈冬鳥=あなた〉となっている。
すべて……詩への期待値。

   連作「音楽には絶賛しかない」

才能のある人たちを座らせる夏の小雨のように僕の手

「音楽には絶賛しかない」

この〈僕の手〉を目視することは可能なのか……思うに、経済用語の「神の見えざる手」を彷彿とする。

明け方の夢の光を切り取ってあなたに渡すときの鳩たち

「音楽には絶賛しかない」

私には〈鳩たち〉しか目視できない。

点々と闇に光って落ちているあなたの涙粒、冬の恋

確かめるようにかすかな音楽の間に咲いていた決意、薔薇

「音楽には絶賛しかない」

どちらも「、」以降の単語を〈私〉が差し出す言葉のように見える。
引用一首目は、抽象。引用二首目は、具体。
それは「、」以前が、引用一首目が具体で引用二首目が抽象。

   連作「恐怖と音韻の世界」

冷たさの光のなかで刻まれる紫蘇、その紫蘇の放つ芳香

「恐怖と音韻の世界」

認識の順としては、紫蘇が刻まれているのを知っていて芳香を感知している。
たとえば、紫蘇の芳香を感知して、それから光のなかで紫蘇を刻んでいるのだと分かる。ほうが、光をフィルターとするのにドラマチックだと思う。
思うが、この一首は光のなかと距離を取っていない。おそらく「冷たさ」は光のなかの「冷たさ」で、助詞の「の」(冷たさの/光の/その)は順接ではなく並列なのではないか。視覚的な「冷たさ」ではなく、浴びている光の「冷たさ」というか。
上側からの光の冷たさと下側(手元)からの紫蘇の芳香で〈私〉はサンドされている。

   連作「愛しい人たちよ、それぞれの町に集まり、本を交換しながら暮らしてください」

夕暮れが日暮れに変わる一瞬のあなたの薔薇色のあばら骨

朝焼けが僕らの耳を冷やしきり僕らは冬の一部に変わる

「愛しい人たちよ、それぞれの町に集まり、本を交換しながら暮らしてください」

どちらも「変わる」が含まれている。
変わる……どちらも受動、主体は太陽であり、または〈あなた〉と〈僕ら〉である。
引用一首目は〈私〉が〈あなた〉に一瞬「薔薇色のあばら骨」を見出だす、おそらく、すぐに元に戻って「薔薇色のあばら骨」を認識できなくなる。ときの「一瞬」の重大さ。
引用二首目は〈僕ら〉の状態変化に「耳を冷やしきり/冬の一部」の二段階あるが、やはり〈一部〉が妙か。
冬が全体にあり、だから〈朝焼け〉も冬の一部だと分かる。ときの、屋外に出ている〈僕ら〉の感じ。

③の例に則ると、この〈冬〉が〈私〉となり〈僕ら〉が〈それ〉だと思う。

   現実で見る夢の景色?

そして〈それ〉を手元に引き寄せる力学。
カメラアイ……同じ方向・景を見ることになる読者の私は〈私〉と同じ〈それ〉を得る、という錯覚がある。それから〈それ〉の浸透力・浸透域。
瞼を、開ける/閉じるの変化が、歌集を通してテリングに点在していて、受動的に瞼を開ける/閉じる……が、できる。



歌集『やがて秋茄子へと到る』を「対象との距離感」と「時差」のアプローチで言及しようと書き始めたけれど、こちらの内外のコンディションを整え直して、改めてコンパクトに作文したいところ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?