【フィクション・エッセイ】青松輝の短歌を読んだ⑦「vocal(2022)」(『上智詩歌 創刊号』2022年11月1日)の頃


水道橋駅前のコメダ珈琲店。
地上からすると2階の位置にあって、商業施設のような空間の玄関口みたいな感じでの位置どりにある。店内は外から見るよりは案外、小ぢんまりしているし、店内も特段、広いってわけではない。
下北沢店も地上からすると2階の位置にあるけれど、外から見ると小ぢんまりとした建物の中にあるようで、店内は意外と開放感がある。
けれど実際のところ2店舗の席数や敷地面積は、大差ないかもしれない。
これは〈私〉の入店時の主観だ。

   ・

在学生にとっても久しぶりの大学祭らしく、しかし全面的にマスク着用で喋り声は少なめ、一方で学内放送による催し情報が喧伝されていた。
かといって何がどうということもなく目的の部屋で目的の頒布物を購入した〈私〉は、校門でwakatte.tvの撮影隊が待機しているのを横目にしながら中央線に乗って四ツ谷駅を離れる。

ところで水道橋駅前のコメダ珈琲店で、目当ての機関誌『上智詩歌 創刊号』を開き、真っ先に青松輝の短歌。
青松輝の新作短歌連作20首、今までの発表作よりも連なりにおいて意味上の繋がりが大きい、あるいは分かりやすいように見える。とはいえ「今までの発表作より」は、ではあるが……

ワールズエンド 夜中のカラオケボックスで僕がする機械音の息継ぎ

「vocal(2022)」

僕(≒作者/青松輝)との相関が提示されている。一首の〈僕〉と相関しているのは読者、つまり〈私〉である。
ところが、

すこしだけ演技しながら振ってくるすべてがきみにとっては天使

「vocal(2022)」

〈きみ〉の出現によって、これは〈僕/きみ〉の相関だと示唆され、
しかし、主格と客体、あるいは〈僕/きみ〉の位置は、まどろっこしい。

眠剤でアンドロイドのようになってこわれた蝶のマシーンになって

真夜中のスクショをきみがストーリーへ載せてはじまる異世界転生

深い傷をでたらめに縫い合わせたり天使のふりをしてたら 浮遊

サイリウムを掲げるわたしを指差して歌姫の映像はぼやけた

「vocal(2022)」

たとえば〈アンドロイド〉は「のように」なのに〈マシーン〉は「に」なのは、なぜか。僕=機械音との関連は?
あるいは「深い傷を」と「浮遊」の〈ふ〉の頭韻や「たり/ふり」にある、ときめきポイント。

それはそうと、
人称の、だと思う。
人称の、バグ。
自己認証と他己認証をバグらせている……?
しかし、作中は全て〈私〉の、いわゆる一人称〈青松輝〉の範疇なのではないか。
それが、いかに自作自演だろうが〈私〉は「〈私〉による〈私〉のジャック」というニュアンスでは、非常に推せる
(特段、青松輝に対してのみへの所感というわけではなくなってきているし、決して自身の指針の全てってわけではなく)
いわゆる「〈私〉の拡張」の一種でもあるかと思う。
とはいえ、潔癖になりすぎるが故に(?)全てを自己認識としてしまう前に、いったん他己認識としての他者(≒自身の内の別自我、のようなニュアンスだとしても)を確立し、留めておく必要はあるのではないかと思う。

思う、というか思った。

   †

神はまだ見たことないし、あると思う、あなたが神である可能性

「vocal(2022)」

そして後半に出現する〈神〉と〈あなた〉は、全半部の〈僕/きみ〉とは別の位相にいる
ように思える。

 ところで私はこの、「神の視点」というやつがどうにも気に食わない。そもそも神は視点を持つか。視点を持つということ自体、時空に特定の位置を占めること自体、われわれのごとき人間存在の限界であって、神に視点を帰属させる時点で、それはもう人に似たなにか、神とは別のなにかではないのか。

/斉藤斎藤「神について黙るときにわれわれの語ること」『角川短歌2022年6月号』

いささか、ミーム的な「神の視点」のニュアンスに対して、ガチな所感(美点だとは思うが)を抱いているようにも思えるし、だとしたら「神の視点」という表記の変更を要請しているとすら思えるが
斉藤は、「神の視点」とは「肥大した一人称」に過ぎないのでは? と述べる。
連作「vocal(2022)」の前半から〈私〉が思う「〈私〉の拡張」と「肥大した一人称」に〈私〉は親和性を感じる。
つまり、
前半にある〈僕〉も〈きみ〉も〈女の子〉も〈わたし〉も、全て〈青松輝〉の「肥大した一人称」に見える。

いささか空滑りし始めているかもしれない……

とにかくは〈青松輝〉にとっての〈神〉は(そういえば〈歌姫〉という表記もある)何なのか、どのような対象としての〈神〉なのか……ではある。

(ぜんぜん僕に興味なさそうな感じで)きみは僕の動きをコピーした

きみはずっと光と水しぶきのなかではしゃいでいる 歌じゃ間に合わない

「vocal(2022)」

しかし〈青松輝〉は作者であり、であるからには少なくとも今の〈私〉は読者で、この20首において〈作者/読者〉の関係がある。
いったい〈青松輝〉は何を視ていて(何を視たがっていて)何に呼びかけている(何に?呼びかけている?)のだろう。
良くも悪くも、あるいは、幸か不幸か(誰にとって?)連作内では、判明しない。

ここには誰もいないよ だけど怖くないよ まだきみは生まれていないから

ユーアーザファースト 調子いいことを リピートアフター 何回だって

「vocal(2022)」

この20首、による/における/での、意味……意味内容……意味に関して〈私〉は、まだ停滞する
ような気がする。
しかし……それにしても……しかし、なにもかも足りない、なにもかも。

しかし一方で、臨界点……とある臨界点……臨界点の一つ……があるような。

「ギリで、というかフルで」というのも珍妙な表現だが、一定の基準をぎりぎり越えずに、というのは一定の基準を「フル」で満たす、ということになる。

/寺井龍也「『墓』のうらにまわるー『墓には言葉はなにひとつ刻まれていなかった』前号評」『よい島』(2017年)

おそらく意味においては「ギリで、というかフルで」の域にあって、同時に「分かる/分からない」においての「ギリで、というかフルで」の域にある。というニュアンスでの、排他を感じる。

ギリで、というかフルで、あなたの世界への不意打ちが不意打ちのままであってくれる、のはあなたと、誰かもう1人くらいがそのときその部屋にいるときまで、じゃないですか?

/伊舎堂仁「いなくなってほしい」『墓には言葉はなにひとつ刻まれていなかった』(2016年)

   ・

ところで〈天使〉のところもあるが、それもだけど、そういえば〈天使/神〉の関係は?


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あるいは〈私〉は、たんに「もの分かりが悪い」のかもしれない。




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続いている

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