【再掲】望月裕二郎『あそこ』十二首評


集合……集合体の一種として歌集という媒体があるときの、歌集『あそこ』には、おおざっぱに言ってしまうと、反応のなさに対する〈問いかけ〉が多くあるような印象がある。そのとき、反応のなさは〈問いかけ〉の対象が〈言葉〉であるから。だとすると、反応したくなっている私が〈人間〉であることを申し訳なく感じる。

↑いささか、理想論に近い(当時の)リード文↑

↓このような物言いになる2020年11月の(たぶん今も、そんなに変わらない限界地?)↓


ひがしからひがしにながれる風に沿い右目をあずけたのは鳥だった

 この「から/に」の間に〈私〉はいない、という不在感を思う。
 おそらく〈私〉の東側から東の方への風の流れがある。と、するのだけれど、飛んでいるのであろう鳥がいることで〈私〉の立つことのできない、はるか上空に「ひがしからひがしに」がある。ことが分かる、のと同時に〈風〉と同様に〈右目〉の、視線の動きも捉えられるのではないか。と思索し始めたくなってくる一首。

あぶらでもさすか空しかみえないしけれどわたしは空ではないし

 まず「あぶらをさす」は慣用句の「火に油を注ぐ」のようなニュアンスで理解しようと思う。と思いたいとき、この「空」は何だろう。と思う。空しかみえないし、というのは「あぶらでもさす」の動機としてある、としても「わたしは空ではないし」の結句で、初句の「あぶらでもさすか」という感慨は、おそらく退屈のようなものから生じた印象があるし、そのまま宙吊りな状態になる一首。

まちがいのないようにないように馬なでているその手のひらにあぶら

 まず「ないようにない/ように馬」の句切りによる韻律を堪能したい。
 その上で「その手」は〈私〉のではない手ではなく、時間経過によって状態が変わったというニュアンスが付与された「その」であることと「なでているその/手/のひらにあぶら」という結句の、どちらにも余る「手」を堪能することができる。
 みたいな享受で、自分にとっては満足度を得られる一首ではあるのだけれど、この「あぶら」は〈馬〉の、だろうなぁと思うとき、改めて「なでている/その」の「なでている」までの、ずっと今な感じ?

いまだけのみじかい水をすきかってはしらせる部屋それもわたしの

 いったん結句まで読んで「わたしの/何??」と思う、けれど「体内」のことを「部屋」だとしているのではないか、とすると、わりと分かりやすく享受できる。ような気がする/分かりやすく享受できるようになればよいというものでもない気もしつつ。とはいえ三句目の「すきかって」は「好き勝手」と脳内変換するけれど、ミスリードな印象は摂取した(ふつうに口から飲水した、と読んでいる)とき、本当に「好き勝手に走らせる」ことはできるのだろうか?と思ってしまう。たとえば「好きか?って」というニュアンスで読むこともできつつ、そもそもミスリードといえば「部屋」にある気はしつつ……

どの口がそうだといったこの口かいけない口だこうやってやる

 具体的に「こうやってやる」で、どのような状態にしているのかは分からない。けれど、一首に三度ある「口」は全て〈私〉の「口」である。と思う、なぜなら人は一つの「口」しか持っていないのだから……という事実を突き付けられる一首、だと思う。

だまっても口がへらない食卓にわたしの席がみあたらないが

 いったん「口が減らない」という慣用句を念頭にしつつ「だまっても口がへらない」とされたら、まぁ減りはしないよね。と、わらってしまう。と同時に、慣用句の「口」は「発話された言葉」としてニュアンスがあることを思い出す。この「だまっても」は〈私〉が、という状況だろうが、それを踏まえて「わたしの席がみあたらないが」と食卓に自分の席を探していることを想像すると、おかしみではない何か、この何かは(今の自分のは)言語化できない/しかねる何か、を享受してしまう一首。

歯に衣をきせて(わたしも服ぐらいきたいものだが)外をあるかす

 慣用句「歯に衣着せぬ」があり「歯に衣を着せて歩かす」という〈私〉の、ちゃらけニュアンスがある。のだけれど、言葉上の「衣/服」に「上位/下位」のような認識があることに、うすうす気づいてしまうとき、比喩や言葉の「歯」と「わたし」の比較が〈私〉のなかで為されていることを感じたりする。

満を持して吊革を握る僕たちが外から見れば電車であること

 短絡的な発想だけれど、この〈僕たち〉は都会の新卒社会人という、同時に満を持した人同士なのだろうと読める(あるいは、修学旅行みたいなことでもいいのだろうけど)。ときに、それぞれの〈僕たち〉は個々であるにも関わらず、もっと巨大な力のようなもので「外から見れば電車」でしかない、ということを「どうしようもないなぁ」と甘受するしかない。ということを、けれど各々の感受によって〈僕たち〉は各々の〈僕〉になれる余地が感じられる一首かと思える。

「一体誰がファックスの音考えた」「自然にできた」「そんなはずない」

 いったん結句の「そんなはずない」という反応に対し「それはそう」と同調できるとき、まぁでも誰かが考えたわけではないだろう/けれど自然にできたわけではないだろう。いったい「自然にできた」とは、どういうことだろう……?

真剣に湯船につかる僕たちが外から見ればビルであること

 湯船のあるビル、を上手く想像することができないけれど、おそらく湯船につかる〈僕たち〉は、外から見たら湯船につかる人がいるとは分からないビルなのではないか。そこで湯船につかっていることを知っているのは〈僕たち〉しかいなくて、だからこそ「真剣に」としている真剣さに、おかしみのようなものを享受したくなる。

水しぶきを浴びるために来たディズニーで僕はミッキー・マウスを見た

 一見、同じ時制の「来た/見た」のような印象でありつつ、そういう意味でも「遠過去/近過去」が並べられた今っぽさ、はある。が、冷静に「来た=目的」に対する「見た」の何かしらを享受すべきだろう。だってディズニー(ランド/シー)に行ってミッキー・マウスを見ることになるなんて、あまりにも必須事項だろう。そんなことは分かっていて/分かっていただろうとして「見た」のニュアンスは文字だけだと尚更、人によって受け取り方は変わるだろうし、読時のコンディションなどにも左右されるだろう。
 それにしても、わざわざ「僕は」とされている報告に、いったん「僕は/僕以外は」が浮上しつつ、だからこそ「そりゃあ、見たでしょうね」という所感を抱かされる。

地下鉄の隣の席のお喋りのふむふむそうだろう中国語

 ここで〈私〉がしている「ふむふむそうだろう」という「聞く/意味内容を理解し、同意する」ことは、意味内容までは到れず言語の種類の判別に留まっている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?