逃避

「辛いときは逃げていい」系の言葉、あらゆる意味で無責任なのでやっぱりきらい

もちろん、それは決して「辛くても逃げるな」という意味ではなく、むしろ「辛くても逃げるな」と「辛いときは逃げていい」には同質の無責任さがある、とおもう


せめて但し書きくらいつけろ


この言葉の何がだめって、まずひとつに“辛いとき”の解釈が広すぎること。

超〜〜〜〜極端なことを言ってもいいですか? バカだと思われるかもしれないけど。

「ひどいパワハラを受けながら毎月100時間残業していて精神を病んでいる」ときも、「人を殺してしまってまもなく捜査の手が伸びそう」なときもどっちも辛いじゃん、主観的には。
でも前者は逃げるべきだけど後者は逃げるべきじゃないじゃん、それは誰でもわかることじゃん。
ってことは、どっかに「逃げるべき“辛いとき”」と「逃げてはいけない“辛いとき”」の境界線があるはずじゃん。
じゃあそれ、どこなの?
みんな、これはわたしも含めてだけど、ほんとにそういうこときっちり考えて「辛いときは逃げていい」とか言ってる? 思ってる?って、はなし。


逃げたからといって、“辛いこと”が丸ごとすっかり消えてしまうわけじゃない。
内容を変え質量を変えて、その辛さは(未来の自分自身を含めた)誰かに押し付けられることになる。
それをきちんと認識して、考慮しなければ、「辛いときは逃げていい」はすごく無責任な言葉になってしまいかねない。


自分の責任は自分で取らなきゃいけないし、自分でしか取れない


「辛いときは逃げていい」という言葉、たぶん最後のお守りとして自分で握りしめておくのが適切な使用法であって、まちがっても安易に他人に言われたり言ったりしていいものではないとおもう。


だって他人、私の責任を負ってはくれないし。
逆に私だって、他人の責任を負えはしないし。


本当に本当におそろしいことだしわたしは最近ようやく気付いたんだけど、自分と他人って別物だ。
どんなに親身に相談に乗ってくれる友達だって先生だって親だって、私の人生の責任を取ることはできない。
逆に私がどんなに相手を思いやって相談に乗っていたとしても、何を言っても、それがまちがっていたとしても、私は相手の人生に何の責任も取る必要がないし、取れない。

結局すべてを相手に背負わせてしまうことになるのに、辛くて辛くて仕方ない他人に「逃げてもいいんだよ」なんて甘くて優しくてそれっぽい言葉をささやいてしまうこと、やっぱり無責任なんじゃないかとおもう。
逃げたほうがいいと断言できるときは別として、やっぱり安易に示していい道ではない。
一見冷たくみえる「あなたの人生なんだからあなたが考えて決めなさい」の方がよほど誠実だ。それが相手を救わないとしても。相手を救った気になれないとしても。


「辛いときは逃げていい」の悪用だよそんなのは


自分が自分の責任でもって「逃げる」という判断をするのならいいのかというと、もちろん必ずしもそうではない。それが他人を巻き込む問題だった場合は話が別だ。
そこから「逃げる」ことって、大なり小なり、自分の辛さを他人に押し付けることになるから。

(もちろん、「ひどいパワハラを受けながら毎月100時間残業していて精神を病んでいるけど自分が辞めたら他の人の業務が増えるから辞められない」みたいなのはよろしくない。さすがに心身の健康および命に関わるし。じゃあ境界線がどこかと言われればそれはやっぱり難しいんだけど、一応の自分の結論はあるので、最後に書きます)


わたしは、辛いことやめんどくさいこと、やりたくないことからみんながサッサと逃げたあと、「自分が逃げるわけにはいかない」とひとりでぜんぶ背負っていた人を知っている。

自分に酷いことをした人間がその事実から逃げて忘れて楽しそうにしているのに、ずっと癒えない傷を抱え込んでいるどころか「自分が悪い」と思い込んでしまっている人を知っている。


「辛いときは逃げていい」という言葉は、逃げたあとに起こること、残ることについては言及してくれない。
でも、誰かが逃げたあとの尻ぬぐいをするのは、とばっちりを食うのは、いつだって真面目で責任感の強い人たちだ。
「辛いときは逃げていい」なんて言葉が安易に使われるとき、そういう人たちの存在はないがしろにされてしまう。


人には人のエクスキューズ、とわたしの友人はよく言っているけれど、人間だれしも自分のことをなんとか正当化したくてしかたがない。
そういうときに、「辛いときは逃げていい」みたいなそれっぽい言葉は、格好の材料になる。
箴言は簡潔だからこそどこまでも解釈の余地があって、どこまでも自分の都合の良いように捻じ曲げて使うことができるので、自分を正当化するのにすごく役立つ盾になる。

だけど、その硬くて重い盾で他人をなぎ倒して進むなら、それはもう防具ではなくて武器じゃんね。
それでも「これは盾だから」と言い張って、辛さからも、それを他人に押し付けた負い目からも逃げることが、無責任じゃなかったらなんなんだろう。
そういうことが多い気がして、自分もおそらくそういうことを無意識にやっていて、それがすごく嫌になる。

わたし自身はあらゆることに真面目で責任感があるタイプというわけではないし、もちろん逃げることもある(バイトとかサボるし待ち合わせに遅刻もするし苦手科目も捨てるし)。
でも、耐えるのもつらいけど逃げるのもつらくて、自分がやらなきゃ頑張らなきゃっておもっちゃう人の気持ちもすごくわかるから、そういう人たちが損をするのはいやだな、とおもうんだよ。


まあ要はバランスなわけで、これは何事においてもそうなんだけど


わたしはかなり0-100的な考え方をしてしまう人間で、“ちょうどよく”とか“いい感じに”をやるのが大変苦手なので、「辛いときは逃げていい」という言葉をそのまま飲み込むのがとても難しかったし、よくよく考えてもやっぱりきらいだった。
だからよくよく考えて、自分なりの境界線を引くことにした。


「もし自分が逃げたら(逃げなかったら)、自分を含む誰かが致命傷を負う場合は、絶対に逃げるべきではない(逃げるべきだ)」

「そして人間、放っといたって自分のことは大切にしがちなんだから、意識的に他人を優先するくらいでちょうどいい」


もちろんこれはオリジナルの暫定目標なので、必ずしも正解ではなく、今後変わるかもしれないし、今のわたしが遵守できていることでも、誰もが従うべきものでもない(こういう但し書きを入れたくなる自分の性格、本当にめんどくさいな)。

でも「無責任にこういう言葉を使いたくない!」なんて偉そうなことを言った以上、わたしはちゃんとこれを守らなきゃいけないな、という戒めのつもりでこれを書いています。

書いていて気付いたんだけど、この文章はおそらく善人キャンペーンの一環で、わたしが一応の“正解”を得るための途中式みたいなものなのかもしれない。
読んでくれている人には全く無関係なことだけど。

言葉に対しても人に対しても、できる限り誠実でありたいね
2021年の裏目標にしたいと思います(表目標は「メンタルとお金の管理」)

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