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動き続けること。

世界はそれでも回っているんだなぁ、と考えるこの頃。

感染者は日々増加傾向にあるのに、私の仕事はすでに日常を取り戻したかに思える。町を出て、県をまたぎ、その他大勢の動く場所へ、人間は出かけてゆく。自分は感染しない、という、なに由来かわからない自信の下に。

今までだってそうだったことは、ふと立ち止まると見えてくる。

阪神淡路大震災の時も、熊本地震の時も、東日本大震災の時も。

サーズの時も、サリン事件の時も、コロナウイルスの時も。

被害を被っていない、実害のない人々の、なんとさばさばしたことか。

大変でしたね、支援しますよ、私の生活は変わらないから。

言葉は時に簡単に、容易く人の心を抉る。

大変なんだよ、なんとかしてくれよ、お前らは普段の生活をしているだろ。

助けられることが当然かのように、こちらが傷付いた時もある。

喉元過ぎれば熱さを忘れる、という言葉もある。当事者だったことすら忘れて、人間はまた繰り返す。被害者が、加害者になり、加害者が、新たな被害者を生む。

いじめ、パワハラ、誹謗中傷は、傷を負ったことのある人間にしか、正体を見せない。災害、天変地異も同じなのか。

かたや豪雨災害に苦しみ、かたや感染に怯え、しかしほとんどの人間は、部外者である人間は、日々の暮らしで精一杯だ。

世界が平和であればいいと、そう思っているのは確かなのだけれど、他人の口からこぼれるそれらの言葉は、私の表面を滑って流れていくだけだ。どんなに頑張って働いても、動いても、心を砕いても、そうはならないことを、セカイは今日も教えてくれている。