対話に生きるゼミ #2

本日は主催の古瀬さんから「対話」に関する話題提供が中心に行われた。これから「対話」に関する問いを立てていくうえで、「対話」への理解を多様な視点から持つことを目的としている。

チェックイン

チェックイン時にメモをなぜとるのかについての話題があがった。提供される情報をそのままメモするのではなく、自分の感じたこと、反応したこと、思考をメモするとそれがたまったときに自分自身の知の集積になるとのこと(詳しくは下記の本を参照)。最近、フィールドワークにおけるメモについても考えていたので、その違いや似ている部分なども気になった。

話題提供

昨年度からアップデートされた「対話」に関する探究の最新知見を滝業のごとく浴びた。主たる話題として「現象学としての対話」と「脱構築と決定不可能性における決定」からであった。

現象学としての対話

現象学を唱えたフッサールは「主観と客観」ではなく「内在と超越」というリフレーミングによって人間の認識、「確信」構造の解明に迫った。

特段印象に残っているのは「エポケー」である。日頃ファシリテーションをする際に、判断の留保、カギ括弧に置いておく、仮置きしてみる、現時点の暫定解など決め切らないこと、など進行しているプロセスをつねにひらいた状態に置いておくための重要なアプローチと似ていると感じた。

話題提供中の「ヨシタケシンスケの「りんごかもしれない」は哲学だったのか・・・・!」というゼミ仲間のチャットは個人的にはツボだった。決して、「りんごである」にせず、この「かもしれない」が大事である。

脱構築と決定不可能性における決定

ジャック・デリダの理論である「脱構築」からの話題提供はより実践的な知識のように感じた。

「決定することだけが正しい」のだから、決定不可能なものの経験にいつまでもとどまっていることは正義に反することなのである

『デリダ 脱構築と正義』,高橋哲哉

デリダは決定することを正義とし、その行為を「決断の瞬間はひとつの狂気」とも称する(厳密には、キルケゴールが言ったことを引用したとのことだが、実は、デリダの誤解でもあった、とのこと)。これほどまでに強い言葉で表現するのは、決定することで他の可能性を消していること(取りこぼす、捨てている)を十二分に理解しているからこそだと思う。

また決断することを「熟議の中断を印づける」(中断することが決断)とも表現しているのも「エポケー」に通ずる思想が根底に横たわっていると感じた。決断したものやことはそこで終わりではなく、またそこから続くのだ。

この態度を持つだけで「ひらいた」状態に自分を置くことができるし、決断することが難しい人でも、それはその時のわたしがそう決めたことだから、と言いやすくなるかもしれない(決断が重苦しくならない)。

リフレクション

人類学を学ぶなかで、どんなにフラットに世界を眺めようとも、いかに自分を消して向き合おうとしても、決して私から逃れられないことを実感してきていることもあり、自分のなかでたくさんの学びがあった。自分らしさが表出される対話をどうデザインするのか、そのうえでのファシリテーターの”良き”振る舞い・行為はどんなのものか(良きに私らしさが表出するはず)について探求してみたいというのが今日の時点のわたしである。

他にも興味関心として、アポリア、宙ぶらりんであることへの耐性として、ネガティブ・ケイパビリティが注目されているが、どう失敗から立ち直るかのレジリエンス、宙ぶらりんを楽しめるマインドとしてプレイフル・マインドや遊びがあったりすると思うので、これだけでもたくさんの会話、議論、対話ができそうだ。

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