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対話に生きるゼミ #3

リアルでの開催@中軽井沢となった対話に生きるゼミ3回目のふりかえり。濃厚な二日間を過ごしたこともあり、まだふわふわの真っ只なかにある感じ。現時点での思考を言葉に置いてみようと思う。

思考を置くことでいろんな角度から眺められるし、自分のなかにあるものを外に取り出してみることで自分とすこし距離のあるものになるかもしれないし、とりあえず自分から出すって大事だなと思いながら手を動かしている。なので、まとまっていないと思うし、読み手にとってというよりかは自分のために書いている。今回は旅的な部分もあったので写真も混ざっている。

1日目

「対話に生きる」円座

初日は「対話に生きる」円座、ふりかえり(ペアワーク)、ふりかえりの対話をおこなった。

今までは無意識だったが円座の距離感は非常に密であることを実感する。※写真は二日目のとき

円座を行う際に「対話的に場に入る」と言われたことが今でも脳裏に焼き付いている。対話的に場に入るとは、自分の考える「対話」をこの場に持ち込むことなのか、「対話」的に振る舞うのかなんなのか、それともべつのことなのか、場がはじまってから終わるまでずっと思考が渦巻く。また、「対話的」を思考している自分と同時進行に「対話的」に場に身を置いている自分が「場」からもとめられている感覚を味わった。

ふりかえりの対話のなかでも「対話的態度」という言葉も出てきて、自分のなかで「デザイン態度」や「人類学者の態度」などとの重なり、BeingとDoingからの解釈など今時点でも思考がぐるんぐるんしている(事後的にじわりじわりときている)。

2日目

探究の現在地(問い)を探る時間

二日目はゼミ生各人がこのゼミの期間を通じて探究したい問いを個人ワーク(文字、絵、線、図などで表現)とペアワーク(表現したものを相手に伝える、一緒に考える)を中心に探った。

自分はゼミの初回に記載した探求したいと考えていたテーマを書きおろしていたので、そこをじっくり深ぼってみた。

他者と触れ合う、触発される「場」をどうデザインするか
対話的な場を作る上で自分がもつべき心がけ、マインド、態度、口癖とは
対話的な場のルールとは👉場のデザイン

2022年9月17日時点での書きおろし

初日に円座を体験したこともあってか、対話的な場を考えるだけでも大きなテーマであるように感じられ、残りの期間(1ヶ月ほど)で探求する問いにレベルを合わせなければいけないこともあり、自分の対話的な態度、口癖、姿勢、観察を理解をすることが対話を理解することにもつながっているのではないかということを考えた。

今、もっとも探求したいこと

2日間対話の場に身を置いたわたしから湧き上がってきた言葉

対話的XXの部分になぜ自分が態度というものをあげたのか、そこについてはまったく意識的に考えていなかったが、今このnoteを書いている瞬間において「なんで対話的態度が気になったんだろう」というリフレクティブな自分がいることに気づく。対話的に生きるは文として言えそうだが、対話的態度に生きるというのはなんかしっくりこない。

自分が取り組んでいる「デザイン」を対話と同じところに入れ替えてみるとどうだろうか。デザイン的に生きる。うーん。しっくりきているのか正直わからない。デザイン的態度に生きるは、もはやしっくりではなく、気持ち悪くもある。

態度って気になる(口癖も気になっている)。今の自分はこれを探求してみたいのかもしれない。

最後に二日間のまとめとしてA4の紙に詩もしくは言葉を書いた。その場では、できたてほやほやすぎてすぐに食べることができなかったのだけれど、1日おいたら口にできそうかなと思えてきた。


わたし

家族といるわたし
はたらくわたし
ご飯を食べるわたし
お酒を飲むわたし
音楽を聴くわたし
対話をするわたし

ぜんぶわたし

知っているようで知らないわたし
わたしのことを知りたいわたし


帰路で出会ったY字路

夜の軽井沢駅付近を散策してたときに横尾忠則じゃん!と思って撮った一枚。

撮影しているときはY字路であることだけに注目していたけれど、今眺めていると「止まれ」の文字が目に飛び込んでくる。するかしないかの二択でもなく、止まれってのもエポケーでいいなって思う。そんな景色と最後に出会えたことにも感謝です。


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