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【読書感想文】脳科学者の母が、認知症になる(恩蔵絢子)

僕の母方、父方、2人の祖母との別れ方はとても対照的でした。別れ方だけでなくそこまでの関係性も対照的でした。

母方の祖母は母の姉と一緒に大阪に住んでいて、僕らから訪ねることは無く数年に一度うちにやって来て、お気に入りの焼き肉屋に行って、お気に入りの健康ランドに寄って、僕とは大した会話もせずに帰っていく人でした。やがて、祖母も伯母も高齢になり、近くにいた方が一緒に面倒が見れて良いだろうということで祖母と伯母はうちの近くへ越してきて(その頃には僕は実家を出ていましたが)、ほどなくして祖母は養護施設へ入るようになりました。

僕が実家へ帰った時に祖母のいる養護施設へ家族で行った時には、僕と会話しないどころか、母との会話もなく、黙ってぼんやりしているだけでした。祖母の性格や嗜好はあまり知りませんが、これほどまでに何も話さない人では無かったと思います。そうした祖母の姿を見て「その人」とは思えず、とても居心地が悪く感じました。そして、僕は祖母の声を思い出すことすら出来ないくらいになった状態で別れの時が来ました。

一方、父方の祖父は父の姉と一緒に名古屋に住んでいました。こちらへは毎年盆と正月、時には春休みにも訪ねて、小さいころからたくさん話しました。脚を悪くしていたのでどこかへ出かけることはあまり無かったですが、最期まで口が達者でベラベラ喋ってお節介な性分は変わらず、僕にとってはずっと祖母が「その人」であり続けていました。亡くなる1年前に僕が1人で祖母を訪ねた時には、母方の祖母との別れ方が頭にあったこともあって「脚は悪いけど、頭がハッキリしててこうしていつでも話せるのは良いよね」と言ったこともありました。


この本では脳科学者である恩蔵さんの母がアルツハイマー型認知症になり、料理が出来なくなったり、近い期間ことを思い出せなかったり、元々恩蔵さんの母にあった理性的な営みが出来なくなっていくことと、そこに直面した時の恩蔵さんの葛藤や恩蔵さんの父の姿が描写されています。ただ、描写するだけでなく脳科学的にどういうことが起きているのかを紐解きつつ、恩蔵さんの母に残っている「その人」らしさが見える瞬間とその根拠を示しています。

脳の機能としては生命維持機能、感情、理性という3つの階層があり、認知症は一番上にある理性をつかさどる大脳皮質に不具合が生じるというのがざっくりの要約になるかと思いますが、この理性というのは長期記憶の中でも宣言的記憶、言葉や意味で覚えておくもので、ここへのアクセスが上手くいかなくなっていきます。

大人になっていくにつれて身に付けていくような能力というのは、こうした言葉や意味を理解して体系的に習得していくことの方が多いと思います。なので、認知症によってこうした能力が発揮できなくなるようになると、今まで見てきた「その人」を形成する理性的な振る舞いが見いだせなくなるので、「その人」ではなくなってしまったような感覚になるのではないかと指摘しています。

長期記憶の中には非宣言的記憶(手続き的記憶)というのもあって、こちらは体で感覚的に覚えているものになります。自転車の乗り方とか、無意識で出来るような行為がそれにあたります。この2つの長期記憶は脳の中で処理される場所が違っていて、非宣言的記憶(手続き的記憶)は感情と同じ大脳辺縁系がつかさどっています。

つまり、認知症になってもその人の持つ感覚や感情は失われず残っているのだということです。そして、この感覚や感情は人間が動物として持っている本能の部分であって、自分の置かれている状態に適応するための機能であることから、この部分が残っていることが「その人」というものを失っていないことを表しているのではないかと書かれています。

どれほど脳が萎縮しても、何がわからなくなっても、幸せに暮らすために、脳は努力するもので、その過程は十分、尊重されるべき「その人」なのではないだろうか? 私は、若く、元気な「良い時」だけでなく、最初から最後までを含めて「母」という存在を見つめることを知ったのかもしれない。

恩蔵絢子.脳科学者の母が、認知症になる 記憶を失うと、その人は“その人”でなくなるのか?(河出文庫)(p.132).河出書房新社.Kindle版.

さらに、認知症の症状として挙げられる「攻撃性」については、認知症そのものが引き起こすのではなく、今まで出来ていたことが出来なくなったことを自覚したり、指摘されたりすることによって自尊心を失い不安が募ることによるもので、社会的な理由によるものなのではという話がありました。


こうしてこの本を読んで、母方の祖母の最期に「その人」を見出せなかったのは、僕が祖母の感覚や感情を知れるほどの関係性を持てていなかったことで本当は残っていたはずの「その人」を見つけられなかったこと、養護施設に入ったことで祖母が自らの状況を悟りどんどん気持ちが塞いでいってしまって感情を出すことが無くなっていってしまったのではないかということが理由だったのではないかと思いました。

一方で父方の祖母に対して「その人」を見出し続けたのは、祖母がどんなことを喜ぶのか、悲しむのかを僕も良く分かっていて、それが最後の時までずっと変わらず感じられたからだったのだなとも思いました。


養老孟司さんが言うところの「脳化社会」を生きていると、その人の理性的な振る舞いばかりが目についてしまうような気がしますし、他人から見えるもの、特にこの文章のように形として残るものというのは理性の営みによって作られることが多いです。ただ、理性は「その人」を形成する一面に過ぎないのもこの本を通じて確認したことでもあります。

言葉、記号を使って体系的に「その人」を理性の面から理解しようとするのはカテゴライズしやすいので負荷の少ないことではありますが、それだけで「その人」を知った気になってはいけないなと、そんな自分への戒めを深くした本でした。お時間があれば是非。


今回はこの辺で。お付き合いいただきありがとうございました。


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