【雑談】浦和における異分子との向き合い方

またしても散文。


槙野についてここ最近生じている自分が感じる感覚のズレというか、そういうものを自分なりに整理しておきたい。

単純化して言ってしまえば、槙野が志向するプロサッカーのあり方としては、試合がエンターテイメント、非日常的な空間であって、選手は誰からも憧れられるような存在でありたいというもののように感じる。

彼がyoutubeでSNSの活用を通じて選手自身のブランディングを働きかけるようなことを言っていたり、テレビ含めメディアに出た時にとにかく観ている人が楽しいと感じてくれるようなことをしたいと言ったりしていることから感じる。

特にU20のW杯であったり広島時代に顕著だった複数人でのゴールパフォーマンスは試合にエンターテイメント性を持たせるための象徴的なアクションだったと思う。それをお祭り男のような感覚でそもそも好かない人もいるだろうし、逆にそれを良く思う人もいるだろうし。


浦和レッズというクラブやその周りの文化というのは、日本の中ではどちらかというと硬派なスタンスを取っているように思う。それは、クラブマスコットも含めて試合の日は試合に関わる人しかピッチに入ることを許していないという点であったり、スタメン発表や選手交代以外は試合中にスタジアムDJが観客を煽るのではなく、ゴール裏のサポーターが試合中の雰囲気作りの中核を担っている点からそう思っている。

語弊のある言い方になるかもしれないが、個人的には選手はじめクラブの人たちとサポーターはホストと客というお互いが向き合う関係性ではなく、一緒に肩を組んで同じ方向を見ていく同志のような関係性でありたいという捉え方をしている。

なので勝利の後にサポーターが唄う「we are diamonds」を選手たちも一緒に唄うという槙野の発案から始まった試みはとても好きだ。照れくさそうに小さく歌う選手や、隣の人と談笑しながらその雰囲気を味わう選手や、歌詞はともかく大きな声で歌う選手など、みんながみんな歌詞を覚えて腹の底から歌うのではない少し自由さのある姿は、スタンドいる人もそれぞれが自由なその空気の楽しみ方をしていることと同じだと思う。


大勢で熱狂するというのは一見非日常的なんだけども、週末に向けて、あるいはミッドウィークであれば夜に向けて気持ちを高めていったところに試合があって、この日常の地続きにスタジアムでの興奮があり、試合の後にはまた緩やかに興奮が冷めていくという、日々のサイクルの中にこのクラブの存在が組み込まれている感覚を持っている。

こうした人は自分だけではないように思うし、これこそがクラブのグッズを買った時の袋などに書いてあったりする「浦和レッズは文化だ」ということなのだろうと思うし、Jリーグ発足によってレッズが浦和に来て以来、あるいはそれよりも前から浦和というサッカーが根付いていた街が積み上げてきたもののように思う。


浦和レッズはクラブとしての理念をweb上にも掲載しているので、クラブとしてのスタンスはここで確認しておきたい。

この中の行動規範には
・本物志向を大切にし、極上のエンターテインメントを提供できるスタジアムづくりを目指します。
・伝統を大切にしながら、新しいことにチャレンジしていきます。
という項目があり、特に1つ目の「極上のエンターテイメント」という言葉は何をもって「極上」と捉えるのかは人によって変わる、幅のある表現だと思う。

ただ、この中に「浦和レッズのホームゲームでは、マスコットであるレディアがピッチに登場しません。それは、試合を行う舞台には、なるべく試合以外の要素を入れず、純粋にサッカーという競技、一流の選手たちのプレーを楽しんでほしいという考えがあるからです。」という文章があるが、以前槙野は浦和もマスコットを出せば良いのでは?という旨のツイートをしていて、個人的にはそこが彼に対して違和感を感じた最初だったかなと思う。


そして、今年になって自分の感覚とは違うもので捉えているのかなと半ば決定的に思うようになったのはホームタウン制度撤廃をうたった記事が出てきた時だろう。撤廃の動き自体の文脈はその記事や後にJリーグ側が出したコメントから読み解くことは難しいが、少なくとも「地域密着の基本理念撤廃」と書かれた記事に対して好意的に反応しているように感じた。

改めてクラブの理念の別の項目を見てみると、「地域のために、という志を持ち、あらゆる活動を行っていきます。」というものがあり、これは浦和レッズにとっては欠かせない要素になる。


選手が100%でクラブの理念を理解し、体現できるとは思わないし、理念というのはある程度の余白というか、抽象度のあるものなので、それをいかに解釈するかというのは人それぞれで、解釈の結果としての言動はさらに幅が広くなるだろうと思う。

また、槙野はプロサッカー選手であり、浦和レッズの選手という順序から、クラブそのものよりも広い枠組みから意見を出すことが多かったと思う。それは言わば個人事業主で、自分で自分をブランディングし、守る必要がある立場なので、サポーター側もそこに対する理解はしないといけない。

そして、彼がプロサッカー選手として自身の技術や体力の課題に真摯に向き合ってきて、怪我でチームを離れることはほとんどなかったし、みんなが下を向いてしまった試合でも大きな声を出して鼓舞していたし、敬意を払うべき事柄がたくさんあるのは間違い無いと思う。


それでも個人的に望んでしまうのは、浦和レッズの選手であり、プロサッカー選手であるという順序。それが「浦和を背負う」ということなんだと解釈している。

ここは価値観の差という言葉で片付けてしまって良いのか難しいけど、決定的なすれ違いなんだろうと思う。矢印が最初に向いているのが所属クラブのサポーターではないように見えてしまったことが、ピッチで良いプレーをしてくれていたのに何か物足りなく感じたモヤモヤの正体だったのかなと思う。
槙野のSNSやyoutube等での発言を全て見ている訳ではない断片的な印象による意見であるけども。

抽象度が高ければ意見の相違は無くなるけど、どんどん具体的にするほど個々の違いが明確に見えてしまって、 SNSやyoutubeのように自身の意見を良くも悪くも誰かのフィルターを通さずにより具体的に発信できる場が増えたことで、より近くにいるはずの人に距離を感じてしまったのかな。


これは、きっと今後も同じような小さなすれ違いが別の選手、これから入ってくる選手とも起きると思う。同質の人ばかりの集団は脆いので、異質な人は必要。その異質性に対して、個人的にはうまい落とし所を見出せなかった。

もし、浦和の育成出身で同じような価値観を持った選手が現れたらどう思うのか。槙野は広島出身だからという排他感は少なからずあったと思う。まだ、整理できていないけど、こういう「異分子との向き合い方」は今年もJ1の中だけでもいくつも見受けられているので、改めて落ち着いた時期にゆっくり考えたい。

今回も駄文にお付き合い頂き、ありがとうございました。

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