その後②。
応急仮設住宅の建設と並行して、災害公営住宅の計画も進められた。ここで困った問題に直面する。立地条件のよい用地は、大部分が応急仮設住宅の建設場所となっていた。よって災害公営住宅は山側に建てることになったのだ。
沿岸部は極端に平地が少ない。海沿いに国道が走り、その両側に店舗や家屋が建ち並ぶ。国道沿いのみが平地と言っても過言ではない。
山側に向かうには坂を上るしかないが、その山側に大部分の災害公営住宅を建設しなくてはいけなくなった。東北の、さらに沿岸部の高齢化率は高い。高齢者に坂の上り下りは厳しすぎる。買い物に行くにも一苦労。また、海を生業にしている人が大勢いる中、海から遠くに暮らすことは難しい。
立地条件だけが問題ではなかった。
設計に入る段階で、変なコンペみたいなものを実施した街もあった。なんでも有名な建築家が審査員となりテーマの沿った内容を競うそのコンペには、全国から多くの設計事務所が応募した。
コンペ自体は悪いものではないと思う。が、それは平常時のこと。一刻も早い建設が望まれるものに、コンペをする必要があるのだろうか。
その有名な建築家は
「シンボル的な建物になるから」
「復興の象徴となるから」
などと言っていた。
昔、内陸の大規模な公共施設で働いたことがある。設計は県外の大きな事務所。棟と棟を結ぶ中庭みたいなところには、光を採り入れるため部分的に外とつながっている箇所があった。「自然光と空気の流れを大切にし、人々が集う空間」にしたいとか。光が入り、外から入る風は確かにさわやかな気分にさせてくれた。
冬以外は。
冬は雪が入り、寒く、ほぼほぼ外。もちろん誰も集まらない。東北の冬は長い。11月に雪が降り3月まで氷点下になる。半年はその空間は誰も利用しない。
コンペで選ばれたその設計では、結局、資材関係の調達に時間がかかることとなり、設計変更につぐ設計変更で結局、完成までかなりの時間を要することとなった。
災害公営住宅のみならず、沿岸部には大規模な建物が建設された。すべてゼロからの整備なので、土地区画整理事業や防災集団移転促進事業などを導入し、基盤整備から進められた。
それぞれの街にそれぞれの原風景があるだろう。例えば柳田国男の「遠野物語」で有名な岩手県遠野市。訪れたことのない人でも、遠野物語を読めばその街を想像してしまう。遠野市は昔、内陸部から沿岸部の結節点として栄えた。だから各地の逸話が集まった。
茅葺屋根の家。曲がり家。草原に馬・・・。こんな想像をしてしまった後に現在の遠野市を訪れるとびっくりする。ラブホテルのような外観のスーパーや、ありがちな電気屋、ホームセンターが国道沿いに建ち並んでいる。正直、訪れるとがっかりする。ちょっと奥地に進めば想像通りの風景はあるのだけれど。
沿岸の中心部は、震災をきっかけにどこにでもある街に変わった。それはしょうがないこと。
まちづくりってむずかしい。本当にむずかしいと感じた。
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