現代病の「自分探し」とその「自分論」

現代病の「自分探し」とその「自分論」

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の記事。
ウィシュマ事件を大々的に報道するマスコミが日本をダメにする!

⚠読むな危険⚠。

論理の意味をしらないと、こういう些末で内向形式の思考にはまり込む。

こういう人は割と多いので言っても何の意味もない無駄なことだが、もし若者たちがこれを読んでいると無駄な人生を送る罠にハマるので、つまり命取りになるので、警告しないといけない。

読まなければよかった。
仕方がない。

さてどこから話せばいいか。

個人経験は各自の生活経験だから、各自の自由意思で思考したり判断したりすればいい。

しかし、その個人としてのヒトと人間は同じではない。

個人が自分は人間だと思い込み信じ込むのは、さき程もいったように各自の勝手だ。

しかし客観的な人間は、ヒト全体を示した意味で人間と言っているのだ。

それが全般的な人間の意味だ。つまり論理としての人間である。

正常判断出来ていて、人生を生きている人間は、こちらの考え方で生きている。

ヒトのレベルで生きている人は各自勝手に命を過ごせばいいのだ。

この2つのは、哲学と認識論としては、主観主義と客観主義の違いを示すもので、キッパリと峻別されている。

平たく言えば主観と客観の違いとなり、〜主義という言葉は外すが、上のように理屈を述べた論理としてあるなら、主観主義の主張となる。

だからやめたほうがいい、無駄なことだということだ。

これ以上の説明は不要だろうが、若者で大学などに通っている人には注意を促しておかなければならない。

主観主義の科学主義という学問体系がデッチあげらていて殆どの大学教育がこれを洗脳している。

『主観主義の科学主義と学問体系』という表現自体が無効命題であることを示しているように、科学は客観世界と客観主義のことであり、それを錯誤して、さらにそれを通り越し倒錯の主観主義の理屈となっている。

この学問をやっていると倒錯を深め、自己観念を自分で点検し自己観念界をアレコレしていくだけになる。

思考と学問自体が観念界と認識界のことだからそのような倒錯を深めていくことが可能なのだ。

しかし現実は客観界のことであり、客観的世界のことだ。
2つは別なことだということだ。
外に向かうことと、自己観念の内側に向かう違いとなっている。

これも警告しておく。

読まなければよかった、読んでしまったからアホらしい初歩論理を解説しなければならなくなった。

思考をするための第一ボタンであり、これをかけ違うと第2ボタン以降は順序なくかけ違うか、かけなくてもよく、各自勝手に好きなだけやればいい。

思考していると言う状態ではないのだから、各自勝手に苦しむがいい。
苦しみに飽きたら(殆どの場合は少青年病で自殺の瀬戸際で切換える)客観と、客観主義に切り替えるといい。
その切替も各自の自由判断だ。

ここまで書いたなら、どうせならこれを『現代病の自分探し論』の解説の一つとして記して置くことにしよう。

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