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求めているのは労働からの解放なのかもしれない。ハンナ・アレント『人間の条件』(1958)を読んで。

1. はじめに

月に一度、読もうと思っていて手が伸びなかった「積読(つんどく)」を解消する趣旨で実施している「Saturday Book Club」。ここ数ヶ月は話題のビジネス書が続いていたけれど、もっと知的負荷の高いものを読みたいよねってことでしばらくは古典に絞って課題図書を選んでみようと思います。2021年6月の課題図書はハンナ・アレント『人間の条件』。英語版は1958年に著者の講演をまとめる形で刊行。日本語訳は1973年に刊行されました。

読んでみた感想を一言。難しい。何が難しいって日本語として難解。新しい名詞がポポポポポーンっと出てきて、何を言っているのか全然頭に入ってこない。西洋哲学の知識がないとわからない箇所が多い。
今回は、理解を尽くすのは諦め、ザーッと通読してみた。結果、自分の関心のある箇所、理解ができる箇所だけが掬うことができた・・・と思う。まぁ、結局のところ受け取る側の器の範囲でしか受け取ることができないよね。

2. 「労働」「仕事」「活動」

本書でアレントは、古代ギリシャのポリスにおける哲学?(そもそも哲学の定義がわからん)と中世・近代の哲学を比較して、人間の価値観にどんな変化が起こったのかを紐解いている。
科学者として事実を描く筆致だけれど、アレントは古代を理想に近代を批判しているような価値観を持っているように受け取れる。

古代ギリシャのポリスにおいては、市民はアゴラに出て政治をやっていた。家のことや生きるために必要なこと(家事とか食糧生産とか)は、奴隷が行い、道具や建物を作るのは職人が行なっていた。(江戸時代の士農工商に近いかも)
古代においては「活動的生活」よりも「観照的生活」が高位に置かれていた。「観照的生活」というのは、ざっくりいうと一人こもって思索に耽るようなこと。「活動的生活」というのは、アリストテレスに言わせてみれば「公的=政治的問題に捧げられる生活」を指し、生命維持のための労働や職人の仕事や商行為は除外されていた。

ところが、中世には、「活動的生活」と「観照的生活」のヒエラルキーは逆転する。また、「活動的生活」の意味も、「世界の物事に対するあらゆる種類の積極的関わり」へと変わる。
この辺りの逆転がなぜ起きたのか、も本書には書いているけれど難しいので割愛。

さて、この「活動的生活」は3つの「活動力」によって構成されている。それぞれに1章ずつ割いて論を展開しているが、ここではさらっと紹介。

①労働(労働する動物):古代では奴隷がやっていたこと。生命維持に関わること。今風にいうとエッセンシャルワーカー。
②仕事(工作人):公的世界に何かを足すこと。道具を作る人。要は職人さん。建築家もこの範疇。
③活動(活動の人):政治。多様性・他者の存在に依存している。人間の網の目の中で行われる言論。=人間が自分の姿を表す。

3. 近代の危機とは、労働優位の世界の矛盾と限界

古代においては、③が重要で、①②はアウトオブ眼中だった。奴隷制とは人間生活の中から「労働」を取り除く試みであった。しかし、近代においてはヒエラルキーの変化が起きて、①⇨②⇨③という順番になる。
その背景には資本主義が生まれたことや、それ以前に中世のキリスト教が世界よりも生命を重視したため生命に密接に関わる労働が尊いものとして浮上したような話も書かれている。

近代においては①労働と②仕事の境も溶解した。それは私たちが生きている現代社会についても当てはまる話で、「仕事=カネになる行為」であり、カネににならない行為は「趣味」の括りに入れられて、軽視される向きがある。
近代において労働は神聖で重要で尊ぶべきもの。しかし、古代においては忌むべきもので、中世においては①②③はフラットだった。ルネサンス期のリベラルアーツには「金稼ぎ術」みたいな科目があって、それは「金を稼ぐ術を身につけることで労働から解放されよう」という趣旨のものだった、と書いていた気がする。

で、古代と近代とを比べてもう一つ。古代には「公的領域」と「私的領域」という2つの世界が存在した。活動は「公的領域」に属し、労働は「私的領域」に属した。
近代になると、「私的領域」が肥大化し、「公的領域」を飲み込んでしまう。その結果生まれたのは「社会」。いわば古代は「政治なるもの」、近代は「社会的なるもの」。この「社会」は、自由で平等な市民による言論の場ではない。家政の延長としての人間の集合体である「集合的家計(これクティヴ・ハウスキーピング)」。そこで「活動的生活」の最も大切な要素であった「活動」は変質し、「行動」へと姿を変える。

「社会」の特徴は「画一性」にある。そこでは人間の行動は予見できるものとされた(統計学や経済学が意味をなす)。「社会」においては古代に存在したような「卓越」は生まれない。
そして、「労働」と表裏一体の「社会的領域」が広まるにつれ、親密なるものとしての私世界や、狭義の政治的なるものとしてのかつての公的領域は、どんどん肩身を狭くして今に至る。

近代では、職業が「生計を立てるもの」になってしまった。唯一芸術家(≒工作人)を除く。
アレントは「消費社会」の特徴を「労働」と「消費」の循環と説く(マルクスが言ったことを引用しているのかな?)。その循環は「生存の必要」に支配されて人間が死ぬまで続く。
産業革命で機械化が進み生産性が向上した。結果、余暇の時間が増える。だが、人々はその時間を「活動」には充てず、「消費活動」に充ててしまう。結果、消費をするために労働をする無限のループに陥っている。
これが近代の抱える危機だ。

4. 人間の条件とは、「言論」と「活動」にあり。

アレントは、「言論なき生活・活動なき生活というのは、世界から見れば文字通り死んでいる」と述べる。言論は異なる他者の存在を前提として、人間の「網の目」(ウェブ)の中で行われる。そこで人間は、自分を晒し自分が誰であるかを示す。それが「勇気」である。言論は活動の前提。言論なき活動は活動ではない。
「活動する」というのは2種類あって、一つは一人の人間が行う「始まり」。そしてもう一つが、フォロワーたちによる「担い」と「終わらせ」だ」。
古代のポリスは物理的な場所としての都市を指す概念ではない。共に活動し、共に語ることから生まれる人々の組織を指す概念である。

以上、本書の要約でした。

5. ここから私たちが学び考えるべきことは?

(5-1)「活動」から「はたらく」を更新する

アレントは古代を理想として「活動」の復権を唱えている(ように見える)。だが、「労働」も「仕事」も疎かにはできないと私は思う。良家の子息でもない限り「生活の必要」はある訳だし、マズローの欲求ピラミッドのように、生存欲求が満たされてこそ、より高次な欲求を満たす行動ができると思うから。
しかし、「活動」なき「労働」や「仕事」はしたくはない。社会に出てみて驚き呆れたのは、サラリーマンの多くが「活動」なき「労働」や「仕事」に勤しみ時間を無為に過ごしていたこと。消費するために労働し、労働しては消費するような、ループの中で。

「はたらく」を更新する、というのは、「労働」発で私たちの活動的生活を行うのではなく、「活動」発で私たちの活動的生活を行おうという趣旨だ。それは社会起業家のそれだ。例えば、途上国初の服飾ブランド「マザーハウス」の山口絵里子代表は、バングラディッシュの人々が正当な価格の仕事で収入を得られるようにするために事業を起こした。そもそものモチベーションは、彼女自身の生活のためではない。結果、製品という「仕事」も役員や社員の収入という「労働」も後からついてきたように思う。
夢と使命感から事業を起こし、持続発展させるフロー。これが「活動」発の「はたらく」だ。

だが、日々を「労働」と「消費」に費やしている、アーレントの言うところの「賃仕事人」で日常を完結させていては、「活動」発の「はたらく」は生まれないと思う。
「労働」「仕事」「活動」がアンバランスであるからこそ、「活動」に充てる時間とアクションを意識してとるのが重要だ。それが金銭的対価としての収入を産まないとしてもだ。自分を晒す勇気を持って言論を行い、他者と混じり、自分の大切に思うこと、疑問に思うことを発信していく。その過程で自己理解が育ち、取り組むべきミッションにも目覚める。

「賃仕事人」でいることをよしとする人に対して、行動変容を押し付けることはしない。だが、少なくとも私は、私の世界から「労働」を廃し「活動の人」である時間を増やしたいと思う。
それでいうと、株や仮想通貨などの運用で不労所得を得ることで「労働」から解放を目指すのも間違ってはいないと思う。正面から「金」と向き合い、自らが主人として「金稼ぎ術」を使うことができるのであれば。(個人的にはそういうのは興味湧かないし苦手な分野だと思うのだけれども)
もう一点、私がコロナ禍を郊外の時代として捉えるのも「労働」からの解放、という趣旨が大きい。田舎暮らしがしたいわけではなく、郊外へ拠点を移して金銭への依存度を減らせば「労働」への依存が減り、結果「活動する人」でいられる可能性が高まるという趣旨だ。

(5-2)消費に代わる「活動」のオルタナティブをつくる

アレントが批判する消費社会。機械化がすすんでも余剰労働力が蓄積されず、また時間が人間の元に戻らず、消費と更なる労働へと人々を駆り立てる。
これは資本主義市場経済の根本的な問題。消費をしないと、経済が回らない、不景気になってしまう。ただ、消費を前提とする社会ってどうなのよ?とツッコミを入れたくなる。これは、地球規模での環境問題や食糧危機という側面と同時に、私たち一人一人の生き方にも影響する話だ。ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる「時間どろぼう」のようなもの。

そこで私たちができるのは、「消費」を「活動」に変えることだ。「消費」しか知らない人には「活動」というものがあるのだと示すことだ。
言論の中身はともかく、勇気を持って人の網の中で自分を示すアクションをする。一銭の稼ぎもないとしても、自分が必要と思うことに正々堂々とエネルギーを注ぐ。自らが旗を立て、いままで「消費」の人だった人々を「活動」へと巻き込むこと。また、他の活動する人が立てた旗をフォロワーとして支えることだ。

6. おわりに

自分を示すことが苦手な人がいる。苦手な人の存在は知っているが、正直なところ理解ができない。批判をしているのではなく文字通りその感覚がわからないと言う意味で。
この文章もそうだけれど、私は自分の考えを綴るのが好きだし、他者と意見交換をするのも好きだ。多少の名誉欲のようなものもあり、自分の個人名を世の中にバンバン出していきたい。そういえば小中学校で生徒会長やったなぁというのもふと思い出した。コロナになって辛いのも、単に飲み屋で酒が飲めないということではなく、言論の場・活動の場が狭められているからだと解釈する。だから、「べき論」ではなく、言論の楽しみを多くの人が感じるようになったらいいのにな、と思う。
VUCAの時代、ライフシフトの時代などと言われる昨今だが、パラダイムシフトはこの100年の「労働」偏重から活動力のヒエラルキーの変化としても現れるのではないかと思う。

オンライン読書会「Saturday Book Club」のご案内

埼玉県所沢市の「サタデーブックス」が主催する月に1度の読書会です。
6/26土 は 20:00~Zoomで読書会を実施。6月の課題図書はハンナ・アーレント『人間の条件』 (ちくま学芸文庫) です。
読書会の内容としては、主催者が要約をした上で、参加者同士で感想をシェアするようなイメージです。

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待機室をONにしています。参加される方は事前に本イベントページ上の参加ボタンを押した上で、お名前がわかる形でアクセスください。

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