見出し画像

ハレのイベント、ケの場作り

コロナ禍の社会状況を反映して、全国至る所で「ドライブインシアター」が開催されている。カップルやファミリーで車でお出かけして、広い公園や海辺で大スクリーンで映画を観る。キッチンカーが出て、ワクワクとした気持ちで映画を観る。写真をとってSNSで自慢したい体験としての上映会。

ドライブインシアターに限らず、ここ5年ほど屋外上映がブームになっている。私は一昨年から昨年にかけて、編集者(兼ライター)として関わるWEB媒体で、新しい映画体験の主催者をインタビューして回った。ゼロから立ち上げたクリエイティブなイベントばかり。主催者の企画に込める熱い気持ちには、毎回心動かされるもので、大いに尊敬し刺激を受ける。
だが、私自身は今に至るまで、そうしたイベントに参加者として出かける機会は、、、ないことはないが、数えるほどだった。ちょっと古い言葉になってしまうが、体験イベントって恋人なり家族なりがいる「リア充」にとっては馴染めるイベントだが、自分のような「お一人様」な「非リア」には、立ち入り難い空間だったから。

上述のイベントが祭り的な性格を持った「ハレの場」としての映画体験であれば、もう一方で、日常の中にある「ケ」の映画体験もある。
極端なことを言えば、休日にシネコンで映画を観ることだって「ケ」の映画体験に含まれるが、より個としての存在が見えやすい新しい体験として、決まった飲食店で隔週で開かれる上映会や、カフェや読書室と一緒になった新業態としての映画スペースもある。
そんな場所を訪れる人は、大体が自分と同じような「おひとり」様で、ペアだとしても、パーティー感は全くない大人の夫婦だったりする。

映画上映に限らずここ数年は体験バブルで、雨後の筍のように「ハレの場」としての上映イベントが立ち上がった。他人の活動に対して批判の気持ちは毛頭ないし、良い悪い好き嫌いの判断を下すつもりもない。ただ、それらは一過性のブームで多くのイベントは5年後には残っていないだろうな、っとぼんやりと予想していた。ハレのイベントは、別のコンテンツが流行ればあっさりとシフトするものだ。イベントの多くはクライアントワークで、予算がつかなくても続ける上映者は多くはないだろう。

ブームが去って残るのは、日常に溶け込んで運営されている「ケ」の場。クライアントワークではなく、スポンサーをつけずに、ひとりひとりのお客さんとのミクロな関係性の積み重ねで成立しているような場だ。メディアに掲載されるのも、主催者が「時の人」としてチヤホヤされ(て飽きたら忘れられる)るのも、「ケ」の場作りにおいては、あまり関係がないことだ。
私自身がこの6月から地域をフィールドに「ケ」の場作りをしているので、なおのこと、そんなふうに思う。
一見して華のあるイベントや、今風のプロジェクト、東京のイケてるカルチャー、海外でビュンビュン仕事してまっせー的な話、それを礼賛するメディアに自分の大切にしていることを左右をされたくはない。
客観的な分析ではなく、当事者としての願望が多分に入るが。

・・・とはいえ、コロナ自粛が半年を超えて、ここに来て「ハレの場所」は「ハレの場所」として必要なことだと感じている。やはり「ハレ」がないことには、男女の出会いや関係を深める場が生まれにくいから。

つまるところ、うわべのファッションではなく、ターゲットや用途をやる人間がしっかりと言語化して掲げられるかが大事だと思う。誰かにとって必要なものは残る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?