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倫理と社会経済の関係。現代社会のエートスに思い巡らす。マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで

1. はじめに

月に一度、読もうと思っていて手が伸びなかった「積読(つんどく)」を解消する趣旨で実施している「Saturday Book Club」。一人では挫折しそうな難所もあえて機会を作ることで読み通すことができる。ということで、今回も古典を取り上げます。

今月の課題図書はドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864-1920)の比較宗教社会学研究『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(原著は1905年、翻訳は1988年の岩波文庫)。1905年というと、日本は明治38年。日露戦争やっていた頃で、文壇では夏目漱石や正岡子規が活躍していた、「坂の上の雲」的な時代です。

ウェーバーのライフワークは「比較宗教社会学研究」で、本書の執筆以降も「儒教と道教」「ヒンズー教と仏教」「古代ユダヤ教」などの研究を行っています。人々の宗教に根ざした倫理観と社会の構造との関係性を様々なフィールドで考察しています。
本書では西欧の近世初期に、マルティン・ルターの宗教改革によって誕生したプロテスタンティズムが、近代資本主義誕生の下地になったという論考をまとめています。

2. プロテスタンティズムから生じた「禁欲」主義

それでは、ごく大雑把に要約をしてみます。
資本主義経済を推進した機動力「資本主義精神」と、プロテスタンティズムとの関連性についてがテーマです。言い換えれば、「資本主義とプロテスタンティズムはどのような関係を持っているのか?」が問いとなります。

高校で学んだ世界史を思い出してみましょう。16世紀マルティン・ルターの宗教改革。汚職まみれのカトリック教会の支配に反発したルターが、ドイツ語の読める聖書をつかって北西ヨーロッパで起こした運動ですね。30年戦争とかウェストファーレン条約とか、単語だけは覚えてます笑
宗教改革によって生まれたカトリックに対する宗派がプロテスタント。プロテスタントの中の宗派として、ルター派とかカルヴァン派(ピューリタンはイギリスにおけるカルヴァン派の一部)とかが出てきます。違いはあるんでしょうが、全部まとめてプロテスタント。
カトリック教会による人間生活の支配が形式的なものだったのに対して、プロテスタントによる支配は、家庭と公的生活両面においてより強い規律を強制するものだったといいます。
中世の修道院を思い浮かべていただければイメージできると思うのですが、「禁欲」が求められます。お金に対する欲を持ってもいけないし、食欲も色欲もNG。まぁ、いやですねそんな世界は笑

当時勃興していたオランダやイギリスの市民的中産階級(小ブルジョア)のなかでプロテスタントは広まっていきます。一見すると、商売で生きてるのがブルジョアなので、禁欲とは相容れないように見えますが、ところがどっこい、プロテスタンティズム特有の思想「天職」(Beruf)というのは、イギリスの小規模な商工業者たちと相性が良かったようです。

「天職」とは①「神の使命」②「世俗の職業」が結びついた思想です。中世の修道院で修道僧たちは自らの日々のお勤めを神の使命として果たしていました。それが、ルター派では、在家の普通の信徒たちにも自分たちの職業が神から与えられた使命だと思って努力しましょう、という意識を植え付けたんですね。世の中すべて修道院化みたいな感じ。

3. 禁欲とは目標達成に向けて全エネルギーを注ぎ込むこと

日本語のイメージとは異なって、キリスト教的な「禁欲」とは「行動的禁欲」のことを意味します。つまり、目標達成に向けて全エネルギーを注ぎ込むこと。他のことには目をくれない。・・・なんだか、アスリートみたいですね。野球のことしか考えない高校球児とか。サッカーのことしか考えないプロサッカー選手とか。

プロテスタントの信徒であるイギリスの小規模な商工業者は、天職としての職業に邁進します。ただ、消費は戒められているので、どんどんお金が溜まります。仕事は神から与えられたミッションですから、お金が溜まれば事業への投資に回して、またどんどん働きます。仕事は手段ではなく、それ自体が目的というのが彼らのエートスです。
そうこうしているうちに資本主義の社会的機構ができて、今度は儲けなければ経営を続けていけない状況になります。
結果、信仰は関係なく、「金儲け=倫理的義務」として定着して資本主義ができる、という訳のようです。資本主義のメカニズムは、個人に対して一定の禁欲的行動を強制します。プロテスタント精神は忘れられ、「天職義務」の行動様式だけが残って今(20世紀)に至ると。
(翻訳者の解説もこの辺りアバウトだったので、ここでもざっくり)

4. 「エートス」とは、社会心理。

本書でウェーバーは「エートス」という言葉を用います。日本語では「倫理」が当てられますが、より正確にいうと「客観的な社会心理」です。
近代の産業経営的資本主義を支えているのは「資本主義の精神」というエートスで、イコール「天職義務」というエートスです。つまり、職業が絶対的な自己目的になっているという社会心理ということです。
そして、ウェーバーはこの「天職義務」がルターがもたらした宗教教育の結果であると述べています。

ちなみに、因果関係で言うと、プロテスタンティズムの倫理は、近代資本主義の成立に際し、原因の一つとして機能したが、唯一の原因ではないとのこと。
訳者はウェーバー自身の認識として、こう書いています。

「宗教改革後の一時期に、複雑な歴史の織りなす物語のなかのひとつの、しかし大切な横糸か縦糸かを禁欲的なプロテスタントが付け加えた。そういうことだけなのであって、宗教改革ないしは禁欲的プロテスタンティズムが資本主義文化をつくり出した、などということでは絶対になかったのです」

ウェーバーの論文はここまで。

5. ウェーバー後の「エートス」を考える


それでは、プロテスタンティズムの倫理が近代資本主義の成立に一定の役割を果たしたとして、私たちとどんな関係があるのでしょうか?

ここからは私論になります。端的に言うと、「エートスが社会経済を規定するという認識のフレーム」私はそれが、本書から現代人が得る価値だと感じます。そのフレームを使って現代社会がどのようなエートスによって成立をしているのかを、私たちは考察することができます。

まず、その後の私たちが知る20世紀の資本主義では、果たしてどんなエートスがその成立を支えていたのでしょうか。
哲学者の鷲田清一が「工業社会のエートス」と言っていますが、20世紀の工業社会はウェーバーの時代の資本主義を引き継ぐ天職義務的なエートスを持っていたと思います。
資源を集めてきて、工場で製品をつくって、それを売る。決まった商品を、効率よく大量に作って大量に消費する。人間は企業に属して決まった仕事をやる。教育機関は工業社会に資する人材を育てる場所。労働はいいぞ、真面目に働いて、真面目に稼げ。結婚して子供作って、男性は会社で家族のために働いて、女性は家庭で良き母であり妻であり・・・的な。
そんな工業社会のエートスは、一部のオラオラ系の世界を除いては崩壊しています。

私たちがいま考えられることは、「ポスト工業社会」を駆動する「エートス」を明文化するということではないでしょうか。
「ポスト工業社会」とはどんな社会か。第二次産業に従事する人よりも第三次産業に従事する人が多くなった社会。多品種少量生産の社会。クリエイティブとかイノベーションとかが大事だと言われる社会。・・・まぁ、この定義をするだけで中々骨が折れるものですが、工業社会よりも個々人の裁量が大きくなった社会だと思います。
「エートス」が社会経済をつくるという見方もできますが、社会経済が変化しているのにエートスが変化しないから人間がギャップで苦しむという姿も想起されます。
たとえば、人生100年時代、VUCAの時代。大企業も潰れる時代なのに、まだ大手志向というエートスが働いている就活生。新規事業起こさないといけないのに、適応できないオジサンたち。
現代の社会経済の実情と、「エートス」(社会的真理)の関係を整理してみると、私たち自身が世の中に対してどういった向き合いで生きていけばいいのかわかる気がします。

コミュニティを尊重するのも、小商いを尊ぶのも、ひとつのエートスの表れであると思います。そこには、「人生やりたいことをやるべきだ」というエートスが存在する。
私たち自身がどういったエートスを持っていて、それがどんな社会的事象から影響を受けているのかを、皆さんとお話しできたら幸いです。

6. 東日本大震災と仏教的エートス

もう一歩踏み込んで、現代の日本社会の多くの人が共有する社会心理は、仏教に関連するものだと私は考えています。そして、その成立に大きな影響を及ぼしたのが2011年の東日本大震災です。

これは、私自身の感覚でもあるのですが、それまではこの社会の当たり前が続くものだと思っていました。いい会社に入って、キャリアを重ねて、何歳までにこういう姿になっている、という未来像が描ける単線的な世界観。
それが、予期せぬ大災害に見舞われ「明日がどうなっているかわからない」ことを知った結果、「明日死ぬかもしれないんだから、いまやりたいことをやっておこう」「未来のために今を犠牲にするのではなく、今の積み重ねの先に未来がある」という思想を持つようになりました。
それらは、いま繁栄しているものも同じ形で続くとは限らないという「諸行無常」の思想や、「いま」この一瞬を大事にする禅的な思想と近しいと考えます。
それから、人と人との関係性の中で絶えず自分も、物事の価値も変化するという思想を持つようになりました。それも、仏教の「縁起」思想に近いものだと考えます。

ここでは「こういうエートスを持つべきだ」とベキ論を語りたいわけではありません。
まずは、ウェーバーのように、社会を科学する視点で私たち自身を研究してみたい。そうすると、それまで私たちが当たり前として従っていた考え方や価値観を脱構築ができる。すると、もうちょっと、生きることに積極的に関われるのではないかと思うのです。
社会学は、私たちの精神を自由にするために存在している。私はそう考えています。

オンライン読書会「Saturday Book Club」のご案内

埼玉県所沢市の「サタデーブックス」が主催する月に1度の読書会です。
7/29土 は 20:00~Zoomで読書会を実施。7月の課題図書はマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (岩波文庫) です。
読書会の内容としては、主催者が要約をした上で、参加者同士で感想をシェアするようなイメージです。

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