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【感想】玄侑宗久「しあわせる力」(2010)

ざっくり言うと:むすんでひらいて、合わせることが、しあわせ

0.しあわせ~ってなんだっけなんだっけ♪(さんま大先生)

こんにちは、あるいはこんばんは、SPY×FAMILY第2期も最高だなぁと毎週ワクワクの私です。家族の何気ない日常の幸せが、フォージャー家にっては非日常の幸せ、とか、ギャグベースなのに素敵~。しかも同じ秋アニメのチェンソーマンでは、主人公の幸せが朝食のトーストとか! 幸せについて考える今期、ふと私も最近感じた幸せを書いてみました。

  • 職場から外に出たとき、晴天で暖かかったとき

  • 寒かった日の夜、お風呂に浸かったとき

  • 夜中に布団って、子供の体温で温かかったとき

  • 久しぶりに買ったロイズのチョコレートがめちゃウマのとき

幸せってか癒しっぽい。もっと幸せっぽい状況を思い出してみました。

  • 欲しかった本やゲームが届いて、開く/遊び始めるとき

  • noteでスキやコメントをもらったとき

  • あれってこういう意味だったのか!と点がつながったとき

これは、楽しい/嬉しい/興奮したとき、かもしれない。ゲームだと完ストしたときは幸せ~より達成感。ワクワクは1週目が一番に感じる!

うーん、しあわせって何だっけ、ということで、今回は玄侑宗久さんの「しあわせる力」を読んでみたので感想を。

1.作者は臨済宗住職で芥川賞作家

どういうわけか、私に玄侑宗久さんブームがやってきたのです…!
ラジオで偉いお坊さんが「頑張れば何でもできます」と話していて、ティモンディ高岸かーいっとツッコんだ私ですが、同じお坊さんでも玄侑さんの言葉はすっと入るのです。

相手を信用せず「がんばる(我を張る)」わけです。がんばる世界にキリがありません。

第3章 なぜ日本人はしあわせと思えないのか p.89
                 

前述のラジオのお坊さんは荒行を達成した体育会系の方だったので、文系(?)の著者のほうが納得感あるのかなぁと思ったり。難しい本も多いけど、受賞した「中陰の花」はすーっと読めました、そして泣いた(´;ω;`)。序盤はオカルトというか、トランス(変性意識状態というらしい)とかの話からワーっと持ってかれました。文庫版は解説付きなので、文庫おすすめです!

2.和語としての「しあわせ」とは

奈良時代に「しあわせ」という言葉ができたそうです。「為合わせ」と書き、天がすることに私がどう合わせるか、うまく合わせないと生きていけない、という意味だったとのこと。
それが室町時代になると「仕合わせ」となり、相手は天から人間になり、人との関係がうまくいくこと=仕合わせる、になったと。
それから明治以降、近代の西欧の経済に裏付けされた「幸福」(勝者が幸せ等)が輸入されてしまった。「幸福」を求めてしんどいなら、個性に捕らわれず、昔の「しあわせ」、つまり流されず逆らわずむしろ波にうまく乗るような受け身の適応力をあげませんか、と書かれていると思いました。

3.むすんでひらいて、が、しあわせ

子どもたちの歌う「むすんでひらいて」を聞いた。(中略)なぜか私の中で日本的な「しあわせ」と「むすんでひらいて」がストンとつながってしまった。

p.4 はじめに

だそうです。子供と一緒に何度歌わされたか分からない(笑)童謡ですが、戦後すぐに作詞されており、日本らしさを取り戻したいという強い思いがあったのではないか、とあります(これは別の本で調べたところ、実は明治から歌われていたようなのですが、日本らしさという意味では間違いないと思います)。むすんでひらいてが、神社等で柏手をうつ所作(手を合わせて拝んでから、手を打つ動作)に通じる、日本らしい歌詞だとして、以下のような解釈も書かれています。

むすんで … 概念を結ぶ。一人であれこれ考える。
ひらいて … ほどく。考えない。目の前に事に、体を使って没頭する等。
手をうって… リセットする。手を叩くと、一瞬頭に澱んでいたものがぱっと飛んで頭の中がきれいになる。昔は敬意を表す動作だった。

概念や思い込みを結びやすい我々の頭やこころをまずひらいて、そして相手の状況に応じて「仕合わせる」ことが、本来は日本人の「しあわせ」だったのではないか

第5章 息苦しいまを生きるために p.182

概念を結びやすいのが人間で、最近は特に結びすぎているのではないかと。

死にたがっていたのは頭の中にある「私」だけだったわけです。全身は生きたい。(中略)「私」にあまり権力をもたせてはいけない。この頭の中にある「私」をときどきほどいてやらないといけない

ときどきほどく方法として、目の前に事に体を使って没頭する事などを書かれてますが、さて「体」という字をなぜ「からだ」とよんだか、という話がまた面白くて。

からだは変わり続けています。トイレに行けば、飲食した水分や食べ物だけでなく、細胞の死骸もたくさん捨てています(中略)一瞬も滞りなく変化し続けている、つまり仏教の言う「無常」だし、「空」なんです。

第5章 息苦しいまを生きるために p180

むかし習いましたね、諸行無常の響きあり、みたいなの。
変わり続ける自分の体を感じることで、凝り固まった頭をほどくことができる、のだと思う…。この辺は、以前読んだにあった「本当の自分を探そう!」とは真逆だなぁと。自己言及は西欧な考えなのでしょう。

何が出てくるかわからない自然の分身である自分を、そのまま信じる(中略)「自分を信じる」ということは、自分のことなんか自分でもわかっちゃいないよ、ということです。

第5章 息苦しいまを生きるために p167

自分、わかってなくてOKみたいっス!

しかしそれじゃあ、むすんで、ひらいて、リセットして、だと、進歩がないというか、同じ場所を堂々巡りのように思うのですが、それは別の著書で、ブッタ大先生は経験知を認めてらっしゃったとか…ムムム…
それに、人に合わせるってことは、人のために働くってこと?というと、それも違う模様…ムムム! 川平Jayが止まらないぞ…!

しあわせるなら、手をたたこう!

まだまだ理解しきれませんでしたが、とにかく考えすぎたら呪術で伏黒が式神を呼ぶときみたいにカッコよく手を合わせて、頭をすぱーんとリセットしてみようと思いました! 玄侑さんの本ももっと読みたいです!

追記:玄侑さんからお返事

あとがきにて「むすんでひらいての作詞について公式サイトへお知らせ下さい」とあったので、夜中の勢いで投稿したらお返事がきたのです…!(自動返信とは別なので、玄侑さんAIが開発されていなければご本人だと) まじか、ええ、まじか…! 嬉しい…、同じ世界にいるだなって、実感しました…ありがとうございました…!


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