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"ストレス社会"を生き抜くライフハック:「脳」を強制終了する日をつくる

日本で「ストレス社会」という言葉が日常言語のように使われるようになって久しい。

これは、サービス残業などの労働条件に起因するものとして話題になることが多い印象があるが、いわゆる「ホワイト企業」に勤めている人も、現代社会では等しくある種の焦燥感にかられるようになっていると思う。

その理由はまずもって、「先行きの見通しの立たなさ」だ。

ポストモダンの論客を引用するまでもなく、私たちが生きる現代社会は不確実性に満ちている。

ウルリッヒ・ベックが「リスク社会」と名付けたように、突然の失業や病気などへの危機感を全く感じないという人は少数だろう。(もっとも、こうした「リスク」は現代になってはじめて生じたというわけではなく、保険市場の拡大と相まって大多数の人々がそれを「リスク」として認識するようになったことがポイントなのだが)

「良い大学を出て大企業に入って終身雇用」という”大きな物語”を信じることもできなくなった。(無論、こうした生き方は「昭和の時代」であっても全労働者のうちの3割前後にすぎなかったことも付言しておく)

いずれにせよ、高齢化率が30%に達しようという超高齢社会を生きる私たちは、(老後の年金などがどうなるかというお決まりの議論も含めて)”将来の不安”は尽きないものになってしまった。

休日であってもSNSを開けば、やれ資格取得のための勉強だの、朝活だの、「自己鍛錬」や「自己啓発」に励む他人の投稿を目にしては、「休日といえどダラダラしていていいのだろうか」といった得体の知れない焦燥感に駆られるという人も少なくないだろう。

多くの人が抱えているストレスのうちの大部分は、こうした「常に自己鍛錬を怠らずに精進しなければ明日のわが身も危ない」といった危機感からきているような気がしてならない。

しかし、(これは完全に個人的な所感であり、自身に対する言い訳なのだが)こうした不安はどれだけ自分を追い込んでも「足る」ということがない。なぜなら、現代社会の構造と言う大きな不確実性に個人で対抗するのは限界があるからだ。

「ここまで頑張ればこの不確実な社会でもサバイブできる」というラインは存在しない。

であるならば、「頑張り続ける」という戦略は、実はあまり合理的ではないということになる。

とはいえ、頭では分かっていてもいざ「完全休息日」を作ろうとしても、ついつい「何か実のある事をしよう」と考えてしまいがちだ。

私自身そうである。

週5で働いてようやく休日になったのに、いや、ようやくの休日だからこそ、「いかに有意義な時間を過ごすか」ということに使命感にも似た感情を抱き、気づけば専門書を手に取っていたりする。

学生の頃はもっと上手にダラダラできていたのに…と思ってしまうほど、息抜きをするのが下手くそになったと感じる。

そこで先日、とある休みの日を「頑張るのをやめる完オフの日」にすることを決めた。

しかし、繰り返すが、頭で分かっていても体に染み付いた「有意義に過ごさなきゃ感」は簡単に拭えるものではない。

何かいつもと違う「工夫」をしなければ、また読みたくもない専門書に手を伸ばしてしまう。

そこで筆者がとった作戦が、「日の高いうちからアルコールを入れる」である。

お酒が入ってしまえばまともに専門書なんて読めやしないし、読もうというモチベーションも起こらない。

加えて、携帯の電源を切った。

いくらアルコールを入れて深い思考ができない状況を作ったとはいえ、携帯を触ってしまうとついついSNSなどから入ってくる情報をキャッチして脳みそを動かしてしまうからだ。

結果、無事に「ダラダラと撮りためていたテレビを見て一日を過ごす」ことに成功した。

何かと色々な情報をキャッチしては腹が立ったり深く考えこんだりしてしまう情報社会を生きている私たちは、たまには「SNS断ち」をして脳の「宿便」を出してしまったほうがいいように思う。

時に、「成長せよ」という内外の声をシャットアウトして、立ち止まるのも悪くないはずだ。

そういえば、以前あるインタビューを受けた際に「一日一歩、三日で三歩、四日目に三歩下がる…みたいな生き方がしたいです」と言ったことがある。相手はポカンとして「それだと一歩も進まないじゃないですか」と言われたので、「後退してないからいいじゃないですか」と返しておいた。

後日、出来上がった原稿を見ると、このやりとりはバッサリ切られていた。


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