ファンの心持

私的なファンの心持だ。

このnoteで、あとにも先にも私的以外のものを書いたことはなく、私的この上ないわけだが、多様な考え方が世の中にはあふれているので、あえて前置きした。

ファンとは、あの台所についているものでもなければ、だからといって風呂場についているものでもない。

いずれも"fan"と書くのだから困ったものだが、fanaticを略した支持者を意味するところのfanだ。
ライヴでタオルをブンブンと、ぶん回していようが関係ない。

私に、もう少し、そっち界隈の知識があれば、ブンブン回る方のファン論を書くなんてシャレを効かせられたかもしれないが、あとの祭りだ。

ファンの意味

そもそも、ファンというのは、何を意味するのか。

しばしば、「スポーツや芸能での熱狂的な愛好者ファナティック(fanatic)の短縮語」(清水均. 現代用語の基礎知識. 自由国民社, 1997.)が引用される。
これは、少なくとも2010年2020年の論文でも紹介されており、2016年の論文によれば、引用元も1992年から2013年まで同様の記述で出版されているようだ。
他方、広辞苑は、第四版まで記載のあった「熱心な愛好者」を削っているという。

必ずしも論文での定義は、用語の一般的な意味を定義づけるものとは限らないが、論文での「ファン」の定義を確認しておきたい。

論文では、「スポーツ・演劇・映画・音楽などで、ある特定の人物(グループ、チームを含む)に対して魅力を感じている人」(2016年の論文)や「マス ・メデ、イアやソーシャルメディアなどを通じて知り得る人物や,様々な芸能,スポーツなどの分野で,ある特定の人物(グループ ・チームを含む)に対して好意をもっており,普段自分がファンであると認識している人」(2020年の論文)としている。

時代とともに変わっているという認識は、いくつかの論文でも共有しており、どうやら言葉自体が意味する”(熱心な)愛好者”という意味合いは、必ずしも当てはまらないようだ。
そして、その言葉自体の意味もまた、そのときどきの現状に依存することから、広辞苑にみても分かるように、変わっていくことは明らかだ。

また、”オタク”や”マニア”といった言葉に、”熱心な愛好者”という意味合いが移った(又は”ファン”にその意味がなくなったことで託された)という見方もできる。
ただ、ひとえに”オタク”といっても、リュックを背負って云々というイメージから”健康オタク”などといった形で、フラットな使われ方に変化もしており、あらゆる言葉の意味が変わっているだけに、単純な比較はできない。

ファン対象

ところで、ファンがいるということは、ファンを持つ人がいるはずだ。
この人を”ファン対象”というらしい。
少し冷たい印象を受けるので抵抗もあるが、何ら他意はないだろうし、便宜上、この記事でも使うことにする。
この定義も、時代の変化とともに変わってきているようだが、少なくとも、ファンの定義になぞらえれば、ファン対象も定義できる。
時代の変化を少し具体的に示せば、たとえば、少し前であれば、新聞・雑誌・テレビ・ラジオといったメディアでしか会うことができなかった人々も、AKB48グループに代表されるように会えるような形となったり、SNSで距離がいくつか近くなったり、YouTuberという必ずしも、それまでのメディアを介さない人々が出てきたりしている。

ファンということ

自分が何の「ファン」なのかは、自分の考えや自分自身を表す一部であり、他者に自分を伝えるために有効な情報の1つである。
この情報の共有によって、一種の所属を示すことになり、同じファン対象を持つ人々がコミュニティを有意識・無意識に形成していると考えられる。これは、ファンダム(fandom)とも呼ばれるらしい。
有意識というのは、たとえばFacebookやLINE上でのグループや公式のファンクラブがこれにあたるだろう。ただ、ファンクラブそれ自体がファン同士の交流ができるかで、どの程度のコミュニティとしての機能があるか決まってきそうだ。
他方、無意識というのは、特別に団結の意思はないものの、ファンであるという親近感を覚え、示し合わせることもなく連帯するコミュニティである。たとえば、Twitterなどでフォローしあったり、ファン対象のアカウントに集うなどが考えられる。

その上で、ファンも多様だ。
ファン心理尺度というものが、2018年の論文では示されており、他の論文でも触れられている。

ようやっと本題

ここいらで、この記事に書こうと思ったことを、ようやっと書く。
私は、ファン対象の紡ぐもの全てが素晴らしく感じる。
そうであるから、ファン対象に訓戒を垂れることもしないし、以前と比較してどうということも言わない。
ファン対象と、その紡ぐものも全てに敬意を表する。

なるだけ、自分が感じたままに良いところを、持てる力をフルに使って伝えたいと思っている。
だからといって、誇張するわけでもなく、思ってもないことを伝えるわけでもない。
自分が感じたことを、相手に合わせたり、相手が受け取ったときに嬉しいと感じられそうだったり、そういった表現をする。

ダディ”にだけはならないということも、最近は考えている。
言わずもがな、ファン対象も私人である。
ファンとの間に何か約束事でもない限り、ファン対象が何をどうしようとも1ミリも問題はない。

グレシャムの法則というものがある。
「悪貨は良貨を駆逐する」ともいわれる。
ここで使うには相応しくない言葉かもしれないが、良いものは良いとして示さなければ、絶えることなく、そこに維持されることはない。
多様な意見は重要だが、それと同時に同意も重要である。

表現のときは、なるだけ「凄い」や「良い」という避けるようにしている。
その言葉だけで文章が完結してしまうのだが、情報量が多い過ぎて、むしろぼやけてしまう。
「凄い」には、「素敵」「綺麗」「嬉しい」「楽しい」など良いことも、「悪い」など悪いことも、後ろに続く余白・空間が広がっている。
「良い」も、「贅沢で」「豪華で」「深くて」「感慨深くて」など、前に広がる世界がある。
したがって、そういった言葉をなるだけ避けるようにしている。
ただ、その代替として「最高」という言葉が台頭してしまって、「これはいかんな」とも思っておるところ。

また、近いうちにファン対象のことを書こうと思う。

※以下、引用の関係で表示(これ以外にも記事中でリンクを張っている)
[2010年の論文]
今井有里紗, 砂田純子, 大木桃代. ファン心理と心理的健康に関する検討(A Study of Fanship and Mental Health). 生活科学研究,2010.
[2016年の論文]
向居暁, 竹谷真詞, 川原明美, 川口あかね. ファン態度とファン行動の関連性. 研究紀要, 2016.
[2018年の論文]
小城英子. ファン心理尺度の再考. 聖心女子大学論叢, 2018.
[2020年の論文]
中林春海, 水口崇. ファン心理やその活動と大学生の心理的健康の関係 : 現代社会におけるファナティックの様態と意義. 信州心理臨床紀要, 2020.

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