【小説】1973年のバックヤード

2023年某月

世界がつまらないと感じるのは、君の無意識がつまらないものばかり探そうとしてるからだよー。

僕は数年間つまらない喫茶店でアルバイトをしていた。つまらない珈琲をいれ、つまらない客をいなし、つまらない雑誌をダラダラと読んでいた。

僕のつまらなそうな様子を察したのか、その時のマスターは僕にそう告げた。確かにその通りだ。僕は物事の楽しみをみつけようとする努力をしていない。

この喫茶店、アルトって名前の店は古さだけが取り柄の奇跡みたいな店だ。席と卓の数は少なく、客も少ない。店の角にはビリヤード台が置かれている。そのビリヤード代もホコリが被っていた。ルールも分からない。

一直線に並んだ玉達の規則性に僕は魅入られた。特に2の玉に強いシンパシーのようなものを感じ思わずそれを手に取る。

2番目の玉を取られた直線の列はバランスを崩しコトコト音を立てゆっくりと散った。
僕は2の玉をポケットに入れる。

何かの衝撃によって簡単に列を崩すそのデリケートさは簡単な運命に狂わされる人間達と良く似ていた。

喫茶店の狭さがバックヤードの広さを少し誇張させてるようだった。

散らかっている。古びたフクロウの剥製がじっとこちらを見つめている。その精巧に表現されたリアリティは死を連想させた。これ程何かを感じさせる無機物を僕は知らない。

ビリヤード台から持ち出した2の玉をポケットから取りだし手に持つ。マスターはまだ訪れない。この時間は僕とマスター、2人の入れ替わりの時間だ。いつもだったらもうやって来るはずなのだが。

時の流れ方が変わった気がした。何かが欠損したような。静寂さがバックヤード一面を包み込む。

赤い2の玉が白い光をパルス信号のように激しく放った。光を直視したが目に何も傷は付かず、光はより一層激しさを増す。そして僕は思わず玉を落としてしまった。コロコロと音を立て、どこか遠くへ転がってゆく。朦朧としていく意識の中、そんな玉の音だけははっきりと聞こえた。

1973年某月

玉が転がる音がまだ続いているようだった。それは最後に聞こえた音が耳の中で響いているだけだろうか。それとも実際にまだ転がっているのか区別がつかなかった。

ここはどこなんだ。タイルの質感は変わっていない。整頓された清潔感のある綺麗な場所だった。

自分が元にいた時代の場所と重なり混乱を起こす。

ここは、喫茶アルトか?
キョロキョロと首を動かすと、カレンダーが目に入った。

1973年ー。

カレンダーが示していた年月に目を見張る。
ここは、50年前の喫茶アルト?

バックヤードの扉の向こうからは賑やかな喧騒が聞こえてくる。たしか今は創業して53年だったはずだ。ということは開店して3年経った時期、ということになる。

時を渡ったのか?夢でも見ているようだ。

僕はバックヤードを一通り探し先程落とした赤い2の玉を見つけた。僕が見ている世界が夢では無いことを示す唯一の証となるものだからだ。

赤い玉を強く握りしめた。ポケットに入れ、バックヤードを出る。

そこには今の喫茶アルトとかけ離れた光景が広がっていた。

狭い店内は上品な背広を着た中年の男性と気品のある婦人達が埋めつくし談笑を楽しんでいた。

カウンターにはマスターと思われる男性が立っている。黒い前髪をオールバックにした若々しい男性だった。現代のマスターと比べてもその雰囲気は変わっていない。ただこちらのマスターの方が遥かにイキイキしている。

もうひとつ驚く光景があった。生きた美しいフクロウがカゴに入れられ首を曲げている。

アルト、餌だー。マスターはそう言いながらカゴの中に餌を置いていた。

あのフクロウが店の名前の由来かー。
マスターが餌やりを終えると新たな客が入ってきた。

彼らもまた気品溢れる夫婦で、マスターが奥側の卓に案内する。

「おお、ビリヤードができるのか。」
夫と思われる男性がそう言った。
「ええ、お楽しみいただけますよ。ご利用になられますか」マスターはそう言い、道具を用意した。

「あ、あれ。」
マスターの顔色が変わった。明らかに動揺している。

「どうかしましたか?」女性がマスターに尋ねる。
「玉の数が足りないんです。赤い2の玉が。」
マスターは道具箱を必死に探している。

マスターが足りないって言ってたの、この赤いボールだよな?

僕はそう思いマスターに渡そうとする。「あの、マスター。これですよね、探し物は。」

マスターは振り返らない。声が聞こえてないのか?
ふと右側を見るとフクロウがこちら側に顔を曲げて向けている。恐ろしく強く。睨んでいるようだ。

運命を変えてみろと言わんばかりに。時間が、また唸り出した。赤い2の玉が光を放つ。これはー。急いで僕はボールから手を離した。コロコロとまた音を立てて転がる。その音だけがずっと、長く、耳の奥で響いていた。

光に包まれた。喧騒はやまないままだ。声も届かないし誰の顔も見れない。

足踏みばかりずっと繰り返してる。そんな感覚だー。想像の中でアルトが、卑しく嗤った。酷い顔だ。ずっとその顔が頭から離れない。

それからー。

1973年の中で、僕は立ち止まったままだ。

永遠の過去の中にいるー。

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