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時雨る日

【会社社長誘拐事件・容疑者逮捕】
【社長は遺体で発見】
その名前を見たのは、新聞の一面記事の中だった。もう数ヶ月も前だ。
【担当の原州地検ファンシモク検事は、捜査の遅れを認め、遺憾の意を表明…】

きのう本人から連絡があり、それを思い出した。
(用があってそちらに行きます。時間があればお会いしたいです)

珍しいこともある。
とっさに、何かヘマをしたのかと焦った自分が可笑しかった。
後輩に起訴されそうになっていた頃を思い返すと、遠い昔のようだった。
拒む理由はない。酒でも飲もうと返した。

監禁されていた自分が、死ぬ寸前で発見されてから1年と半分近く過ぎていた。
入院していた頃の病室に、彼は一度だけ、ほんの短時間だけ訪れた。それっきり会っていない。自分は意識がはっきりしない状態で、隣で妻が泣きながら話す声だけが聞こえた。
「…本当に、ありがとうございました…命の恩人です…」

その後、自分は奇跡の生還を果たした検事ともてはやされた。ただ裏を返せば、それは訳あり物件という意味だ。
実際に社会復帰には困難が伴った。
身体さえ回復すれば元通り、というわけにはいかなかった。
閉じ込められていたクローゼットのように、狭くて暗いところには一瞬たりともいられなくなったし、普段から気分が高揚したり塞いだりするのを繰り返し、パニックを起こした。抑うつ状態、かつPTSDによる不安障害と診断された。
今は腫れ物に触るような扱いをされつつも、お荷物なりに、会社に居残っている。厚顔なら誰にも負けない自信はある。

ただ辛いのは、時と場所を選ばず襲ってくるフラッシュバックだった。
死の恐怖が身体の底からせり上がるように、心臓をつかみ、喉を締めつける。その場にうずくまってやり過ごせればいい方で、悪い時は失神することもあった。
自信にあふれた魅力的な検事ソドンジェは、今はもう見る影もない。悲しいことだ。

秋が深まり、肌寒さが増してくる。
翌日は朝から雨が降りしきっていた。
約束の時間ちょうどに検事部屋のドアがノックされ、ファン・シモクが顔を出した。
「おお!久しぶりだな!」
大げさに名前を呼び、職員たちに紹介する。あの有名なファン検事がわざわざ会いに来たということを強調し、ある程度話し終わると、さっさと退勤する。

「元気そうですね」
「なんとかやってるよ」
相変わらず腹の読めなさそうな顔をしていた。記憶の中の姿より痩せていた。頬は削げ落ちて、鋭い目がさらに大きくなっている。
ジャズの流れるパブで、ビールと軽い料理を注文した。
初めて会った頃は子供みたいな顔をしていたのに、お互い歳をとったなあ。俺は太ったよ。スーツを作り直さないと。
他愛もない世間話をしながら乾杯した。第三者がいなければ虚勢をはる必要もない。
「俺が何か悪さをしていないか、見に来たのか」冗談めかして言う。 

「お前は俺の保護者か何かか?」
生殺与奪も思いのままという意味では、まさにその通りではあった。
「もしそうなら、まるで昔みたいですね」
まんざら嫌ではなさそうな口調だ。
「いつも見てるよ。活躍しているのを。このあいだの誘拐事件も解決したよな」
「解決と言うには、何もできませんでした」

被害者は亡くなったんだったな。
「わかった、慰めてもらいにきたんだろう」
「違います」
「自分を過信しすぎなんじゃないのか。人間にはやれることに限りがあるよ。神様ではないんだから」

「僕にできるのは、あきらめないことしかないので」
ガラス玉のような目でまっすぐこちらを見て言う。
「そうだな。そのおかげで俺は今生きている。命の恩人だよ、お前は」
口に出すのはこの一度だけだ、と思いながら煙草に火をつける。


久しぶりに会ったソドンジェは、相変わらず隙を見せまいと、鎧さながらのぴったりとしたスーツに身を包んでいた。
一見昔と変わらないが、目元の険が深くなっており、焦燥感や、ストレスのために消耗している様子が見てとれた。
喫煙をまた始めたらしく、手の中で形のいいライターを弄んでいる。

とりとめのない世間話から、知り合いの話に移った。あの人はどうしてる?この人は?
去ってしまった人、今はもういない人。
「いい人間ほど早く死ぬからな。俺たちは長生きするだろう」
力を抜いて笑う。
「俺たちほど悪い人間はそういないぞ。西武地検で指折りだ」
そう言って何本めかの煙草に火をつける。
「はい」その通りだと思った。

ソドンジェの携帯が鳴った。
「下の息子からだ」
通話を始める。
にこやかに話し出すのを眺める。聞き慣れない優しい声色だった。そういえば父親だったな、と思い至る。

遺体で見つかった社長も父親だった。
子供たちはもう成人していたが、衝撃を受けて悲しんでいた。
やれることはもっとなかったのかと何度も自問した。ソドンジェは助かったのに。


行方不明者が知り合いの場合、捜索するのは楽なことではない。
顔や声が浮かぶから。
探している間、頭の中で何百回も、どう過ごしているか、またどう死んでいるかを考え続けた。
運悪くトラブルの末に拉致されて、どこかのコンテナにでも置き去りにされて、そのまま死んでいるのかもしれない。相手が悪くて、内臓や角膜をとられた挙句、薬品で溶かされたり、小さく刻まれて下水に流されたりしているかもしれない。
ひき逃げにでもあって、息があるのに雑に川にでも遺棄されて、海へと流されているのかも。魚の餌になっている姿まではっきりと目に浮かび、ひたすら助けてくれと叫び続ける、声まで聞こえてくるのだ。

それは苦しいが、自分にとって避けようのないことだった。予告なく降ってくる雨と同じだ。傘はない。

あきらめることができれば、終わるのかもしれなかった。

「あの時あきらめていたら、どうなっていたでしょう」
つぶやきになって考えが外に出てしまった。

ソドンジェはまだ通話中だった。聞こえていなかったようでシモクは内心ほっとした。
「ああ、そうだな、気をつけて行ってこいよ。…うん、薬はちゃんと飲んでるよ。苦しくないよ。…じゃあ、ありがとうな。ちゃんと勉強しろよ。おやすみ」
通話を終える。
「何か言ったか?」
「いいえ」
「俺、今日が誕生日なんだよ。だから電話」
嬉しそうだ。

「あの時、俺が見つけてもらえないままだったら」
すいません、水をください、とカウンターに呼びかけたあと、続けた。
「きっと息絶えて、そのままあそこで腐っていただろうな。うじがわいて、骨になって」
ボトル入りの水が運ばれ、蓋を開ける。
「その時はその時だ。それに、お前があきらめたからそうなるんじゃないさ。お前を責めたりはしないよ」

漢方薬では効かなくてな、子供と約束したんだ、とぶつぶつ言いながら懐から処方薬の包みを出して飲み、どこか痛むように眉をしかめた。
こちらを見ると少しだけ何か驚いたように目を見開いて、視線をそらした。
自分は何か変な顔でもしていただろうか。

「お前まだ一人なんだろう。そうだ、お前の誕生日に、俺が電話をかけてやるよ。いつだっけ」
答えると、スケジュールに書き込んで、続けた。
「いつか俺のコネになってくれよな」
すぐに冗談だよ、と言って笑った。

「見てろよ、俺はまた中央を目指す。そして借りを返すからな」
冗談ぽく言う声に、力が戻ってきたように感じて少し懐かしい。
「本当に、元気そうでよかったです」


別れ際、いつでもまた連絡しろよ、と先輩らしく言った。今日会えてよかったよ、とも。
店を出ると変わらず雨が降り続いていた。
「お前、傘は?」
「タクシーを拾うので」
自分の傘を差し出した。
「気にするなって。家はすぐそこだから」
押しつけるようにして、じゃあな、と言って別れた。
頭を軽く下げて、またこちらを見るシモクの輪郭が、雨に滲んで頼りない。透明になって消えてしまわないだろうかと思った。
何をしにわざわざここまで来たのか、結局最後まで言わなかったな。わかるような気もするし、わからなくても別にいい。
相変わらず背負う荷物の多いやつだ。俺も他人を心配する余裕はないけれど。

大丈夫だ。お前は明日からまた、正しくて険しい道を歩いていけるだろう。ソドンジェの顔でも見たいと思うような目に、もう合わないといいな。
それでもいつか、自分が助けた人間がいることを思い出したら、どうかまた来てくれ。 

暗闇はまだ怖い。悪夢もよく見る。
だけど、あきらめない。
俺なら心配ない。
しぶとく生き残ろう。
そう思いながら、冷たい雨粒を額に受けて歩いた。
湿った夜の空気を深く吸って、肺に充たした。 
季節の変わる匂いがした。





おわり

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