#3 記憶の香り
家を出てから2ヶ月ほどが経ったころ、Sのかつての上司から連絡があり、会うことになった。結婚の仲介をしてくれた人だ。
こちらへ来る用事のついでに と言葉を濁していたが、私たちが別居したことを聞き、気にしているのだとわかった。
「夫婦のことは、他人がどうこういうものではないんだけど… あいつのことだから。いろいろ奥さんも我慢してるのはわかってる」「ここは私の顔を立てて、もう一度チャンスをやってくれないか」
地検の近くの喫茶店で、上司がこんなふうに私に頭を下げていることを、Sは知っているのだろうか。
上司は、ただ私が家を飛び出してから彼に会っていないということしか知らないようだった。「あいつがあんな風だから、あなたと結婚してくれて本当に安心したんだよ」「一度ちゃんと話し合って、それからでも遅くないから。…来た、おいこっち」
Sがこちらを見つけて近づいてきた。「仕事は片付けたんだろ。俺から言っておくから。戻らなくていいぞ」では、と言って上司は席をたつと、Sの方を見てニヤリと笑ってから立ち去った。
Sは、大きな紙袋に入った花束を持っていた。
「あの、これ」
挨拶もなく、紙袋ごと差し出してくる。ため息が出た。
どうせ、上司さんから花でも持っていけって言われたんですよね?
「…はい」「でも、これを選んだのは」僕です、というジェスチャーをする。
薄いピンクの小ぶりのバラでできたブーケだ。私はありがとう、と言って受けとった。
「香りが良かったから… 。あなたがつけていた香水に、似ている気がして」
はにかんで話すような言葉を、Sは無表情のまま淡々と話した。
香りをかいでみる。バラの香りの香水なんて私は持っていないし、そもそも香水はあまりつけない。
ムードを演出するつもりのところすみませんけど、と私は切り出した。
私の昔の友達のところに行きましたよね?脅して私居場所を聞き出したんですって?今度はSの方がため息をついた。
「あなたが電話に出てくれないからです。人を雇う余裕はないし、私も忙しいので」…時間もないしさっさと口を割らせたわけですね。迷惑なのだったら早く離婚届を書いてくれればいいのに。
「ちょっと歩きましょうか」
向かい合うより、並んで歩く方が話しやすい時もある。駅に向かう道はだんだん開けていき、商店が並ぶ賑やかな通りになっていった。歩道を並んで歩いた。
「あの時は、ごめんなさい」ボソボソとSが言った。
私の首を絞めようとした時ですか?とは言えなかった。あの時、一瞬だったが確かに恐怖を感じた。何かの間違いだ。悪い夢ということにしておきたかった。黙ったまましばらく歩いた。
路上の屋台が目に入った。ハットグ屋だった。
付き合い初めのデートで一緒に食べたことを思い出した。Sがハットグを食べたことがない、というので私が面白がって食べさせたのだった。あのあと初めて手を繋いだことも一緒に思い出した。屋台の前を通り過ぎた時Sも同じことを考えているようだった。こちらを見るが何も言わない。仕方なく口を開いた。
あの頃とずいぶん変わってしまいましたね。私たち。
「変わった?変えたの間違いでしょう。全部あなたが変えた」
私のしたことを省みれば、Sは怒っても当然だが、私も反射的に言い返してしまう。許せないなら離婚してくれればいいのに。私が全部悪いんです。
足を止めてSが答える。
「許します」
許しが欲しいのではなかった。Sを説得することは難しそうだった。心の問題だから。Sはすぐそこにいるのに、いつも遠くにいる。
人の心も、悪人を捕まえて起訴するみたいに、法律で縛れたらいいですね。それならあなたにも簡単なのに。
皮肉をこめてそう言うとSはしばらく押し黙った。
結婚しなければよかった
「僕と会わなければよかったですか?」
「僕じゃない人と結婚していたら、もっと幸せでしたか?」
Sの声は静かだった。
それはわかりません。
あなたと知り合う前に付き合っていた人とは、向こうの浮気が原因で別れたんです。私にも原因はありましたけど…
裏切り合うのに疲れて、あなたと結婚することを選んだのに、結局私も、あの時の彼と同類というわけです。誰と結婚しても同じかもしれません。屑ですよね。いい歳をして。
Sは黙って聞いていた。
本当に愛しているのが誰なのか、いつもわからないんです。結局、誰のことも愛していないのかもと思います。こう続けようとしたが、やめた。言葉をのみこんだ。Sにとっても、自分にとっても、あまりに惨めだから。
お互い辛くないはずはない。だけど私は感情的にならないように努める。昨日食べたパンが美味しかった、というような口調で続けた。
離婚は普通のことです。どれだけの夫婦が毎日離婚していると思いますか?契約解除みたいなもの。サインをすればいいんです。
「普通のことだからと言って、僕が受け入れると思ってるんですか?」結局私はカッとなる。
言葉の揚げ足ばかりとって、あなたはいったいどうしたいんですか?前みたいに暮らしたいんなら無理ですよ。何もなかった頃には戻れません。
愛してませんから。あなたといると苦しいんです。離れたいんです。
やはりそれが彼の望みだったのだ。Sの目がみるみる暗くなっていく。
「お願いしても、だめですか」消えいりそうな声だった。「お願いです」
愛してほしい、と言っているように聞こえた。
ごめんなさい、と言い残して私はその場を立ち去った。傷つけてでばかりでごめんなさい。
走ってバス停につくと、しばらく誰もいないベンチに座って息を整えた。涙と汗でぐちゃぐちゃになっている顔を拭おうとハンカチを探したとき、ふとバラの花束が香った。
Sが言っていた香りがなんなのか、その時 わかった。
結婚指輪を一緒に選びに行った日に、同じデパートで買った私のボディクリームの香りなのだ。気に入ってそのあとしばらく使っていた。あの日のことが鮮やかに思い出された。
電話が鳴った。さっき会った上司だった。
「Sが戻ってきてすぐ、倒れて救急車で運ばれたよ。病院に行ってやってほしい」「大きな事件を抱えていたから、さすがのあいつも疲れが出たのかも」
たぶん自分のせいだろうと思いながら、タクシーを探すために立ち上がった。
Sは点滴の管をつなげられて眠っていた。医師が、精密検査をしたが特に問題はみつからない。過労でしょう、と言い、私はありがとうございました、と頭を下げた。
眠っているSを見るのは久しぶりだった。よく見ればSは前に会った時より痩せているようだった。前髪も伸びて高い鼻梁にかかろうとしている。そっと髪にふれてそれをよける。捨てられた猫のようだ、と思った。さびしいのに、生きるのに必死で伸ばされた手に噛みついてしまう猫。
先ほどのSの懇願を思い出す。いつもの冷静沈着な姿ではなく、子供のような不安げな声と眼差し。
目覚める時には誰かがいてあげないといけない、と思った。罪悪感から来る気持ちでも、捨て猫をそのままにできないくらいには、情が残っているのはわかっていた。
どこにも進めなくなりそうで、自分のことだけ考えるようにしてきた。あるかないかわからないSの気持ちにはあえて背を向けていた。でもそれも限界かもしれない。楽な方へと流されていったらどうなるだろうか。同じことの繰り返しだろうか。
花束を袋から出して、眠っているSの顔に近づけた。甘い温もりの記憶の香り。
しばらくするとSはもぞもぞと動き出し、眠りから覚めた。頭をあげて私を見つけると、驚いて目を丸くした。
まだ起きないでください。疲れがたまっているそうです。
「いてくれたんですね。そこに」
はい
Sはゆっくり静かに微笑んだ。光が差し込むように笑った。
おわり
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