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#2 Sと彼女

今日の担当裁判が終わり自分のデスクに戻ったSは、法服のポケットに入った紙切れの存在を思い出した。取り出して広げると、書き込まれた離婚届である。ゆっくりと記名を眺めてから丁寧にしわをのばすと、部屋の隅に歩いていき、シュレッダーにそれを飲み込ませた。

それは朝いちばんに係長が差し出した書類の束に混ざっていた。係長は何か言いたげだったが、Sは私的な書類が紛れ込んでいますね、とだけ言った。これが職場に届くのは3回目だ。


書類の送り主は妻である。

一番最後に見た横顔も、諍いが始まる前の微笑みも、彼女と出会ってから話した内容もSはすべて瞬時に思い出すことができた。思念の中に落ちていきそうになるのを押し留め、考えるのをやめる。

頭の中にある冷静な目が、そんな自分を真上から眺めていた。


「そのようになりました」

結婚の報告をするSに対して、地検の皆はさまざまな反応をした。そのニュースに誰もが耳を疑い、経緯を聞きたがった。

女性と、そもそも他人とつきあうことが、長年の苦痛でしかなかったSだが、今までと違う展開へとなったのはすべて彼女の忍耐強さと、的確な助言のおかげだった。

「相手の表情を真似するんです。やってみて」

「推理してください。私が今なんて言ってほしいか。推理、得意でしょう?」

彼女の促すままに振る舞うと、褒められた。数式を解くように、彼女の言いたいことを解釈していった。もともとSには自分というものはなかった。行動には合理的な理由があればよく、それまでの人生の指針だった法律に、もうひとつ判断基準が追加された。彼女の言葉と笑顔による許諾。それに委ねてしまえばあとは楽だった。

請われるままに結婚写真を撮り、招待状を配り、簡素な式をあげた。すべて彼女の意向に従った。共同生活が始まると、細かく気をつける部分は増えたが、すぐに覚えた。冗談を言ってくる彼女に笑ってみせ、喜ばせることも少しはできるようになった。ある時、彼女が言った。

「愛するって、どんなことだと思いますか?」

自分はなんと答えただろうか

「Sさんにとってそれが愛することなら、きっと正しいです」


うまくやってきたつもりだった。ある日、事件の被疑者として呼ばれた人物の携帯電話から、妻の写真が出てくるまでは。アリバイはそれによって簡単に証明された。その男と妻の訪れた飲食店やホテルに、記録が残っていた。そのあいだにも妻からその男あてにメールと着信が入る。「心配だから返事して」

その妻と呼んでいる女性をSはよく知っているはずなのに、奇妙なことに頭の中でうまく繋がらなかった。無くしてしまったパズルのピースを懸命に探している気分だった。混乱しそうになる瞬間、頭のどこかから冷静な目を持つ理性があらわれる。慌てふためき動けない自分ととって代わり、穏便に事を処理した。

 

Sは子供の頃の夢を見ていた。世の中のすべてが恐ろしく、苦痛に満ちていた頃の夢。泣き叫んでも誰も助けてくれない。ひどい耳鳴りのせいで意識を失う時、いつもこの夢が訪れる。なのに目を覚ますと夢の内容は忘れている。ザラザラした感触と痛みの余韻だけがこめかみ辺りに残っている。Sは自分が薄暗い検事部屋の床に横たわっているのに気づいた。時刻はとっくに夜中を回っていた。携帯電話が鳴る。妻からだった。

「また仕事場に泊まっているの?たまには連絡してくれないと」

「すみません」

妻は朝になったら着替えを届ける、無理しないでね、といって通話を切った。Sはしばらく画面を見つめたまま動かなかった。

妻の不貞を知っても、Sは何もする気はなかった。男女間のもつれが原因の犯罪は多い。この何年かの、妻を寝取られた男が加害者もしくは被害者になった事件が脳裏にいくつか思い出された。自分がそれにあてはまるという実感はまるでない。何も感じない。ただ疲れていた。


忙しさを理由に帰宅をさらに延ばしたが、久しぶりに顔を合わせた妻の方は、しかし自分と同じ考えではないようだとSは認めるしかなかった。

「知っているんでしょう?」

Sに問う前から、すでに心を決めているような口調だった。何を答えたところで意味はない。もとより自分の言葉に意味などあったのだろうか。彼女の聞きたいだろう言葉だけを選び、差し出してきた。それが夫の役割と信じてきた。思いつめた表情で妻は何か話している。遠い場所からそれを眺めている気がした。

「…聞いてる?私を見て!」

懇願する湿った声に、心のどこかが反応した。それがなんなのかはわからない。ただその唇に触れたいと思った。

でもそれは叶わないだろう。自分は愛されていないから。今ごろ気づいたのか。冷静な目がやってきて、耳元で嘲っている。

彼女を見るが、彼女には見られたくなかった。何も感じていないと、見透かされるのが嫌だった。ないものをあるように振る舞うだけのつまらない人間だと、いつまでたっても愛が何なのかわからない人間だと、知られたくなかった。すぐそばで彼女が泣いている。夢の中の子供もこんな風に泣いていた。

「私といるのが苦痛なんでしょう?もう解放してあげる」

引きつった彼女の顔に、出会った頃の姿を重ねる。なんて甘く優しい時間だっただろう。なくしてから気がつくとはこのことだ。



しばらく時間がたって、Sは自分の持っている感情が何なのか突然理解した。無視できないほど膨れ上がっているのは、愛でもなんでもない。みっともない執着心だった。

「誰と寝てもいいです。でも離婚はしません」

怒りに紅潮する彼女の頬が美しく、見惚れた。Sの顔を平手打ちしようととっさに挙がった右手を捉える。手首を掴んで引き寄せる。逃れようともがく姿を眺めながら手のひらにキスした。熱を帯びた目つきで彼女を見つめるが、愛のこもったそれではない。

顔を耳元に寄せ、低い声ではっきりとささやいた

「僕のことを憎んでくれても、サイコだと思ってくれても構わない」「君の夫は僕だけだ」

驚きで彼女の動きが止まるのを予測していた。強い力で抱きすくめると、唇を奪った。深く口づける。彼女からもれた吐息を聞いた瞬間、全身の血が逆流するような衝動を感じた。身体をほかのものが支配する感覚。幼い子供の自分かもしれないし、悪魔かもしれない。もう彼女の望みをきく必要も、感情なんてものも必要ないのは明らかだった。

抱きしめたまま、唇を震える肌に這わせ、首筋のぬくもりを探り当てる。温かな雫のようなものが、心のどこかに落ちて広がったような気がした。気づけば細い喉元を押さえていた。指に力が入った。


涙のたまった、意思のこもった目でこちらを睨み、彼女は去って行った。

それきり姿を見ていない。だが居場所はわかっている。

愛することは、僕にはよくわからない。かつて君に、愛について伝えたような綺麗なことも、もう言うつもりはない。愛と呼ぶにはあまりにちっぽけな、貧弱な感情の残り滓が、僕を生かしている。君から奪った心の欠片を後生大事に抱いて、待っている。

君にいつか返せる日が来るのを。





おわり

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