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sniff 続きの話

出勤したシモクはマスクをしていた。
ウイルス性の風邪の後遺症で鼻がおかしくなってしまった。人から違和感のある匂いがするのだ。
正直マスクをしてもあまり効果はない。匂いは本当には存在しておらず、鼻や脳にウイルスが作用して錯覚させているのかもしれなかった。

匂いの中でも、特にハンヨジン警部補のそれにはお手上げだった。非常に良い香りで中毒性があった。
家にマフラーを取りに来た時、室内にいても彼女が近づいてくるのがわかった。香りが徐々に濃くなっていくにつれ、だんだん頭の中に霧がかかるようにぼんやりした気分になった。
間近に姿を見て言葉を交わす時は、まるで別の人間が話しているように現実感がなかった。

「大丈夫ですか?」
と言う、彼女に覆い被さって耳の後ろの匂いを嗅ぎたい。こんな強烈な欲求がわいてきて、勝手に体が動きそうだった。必死でそれを抑えると、急いで家に逃げ込み玄関扉を閉めた。
「大丈夫です、ではこれで」扉越しに言う。
「検事さん、私はだいたい1週間とちょっと?くらいで治りました。えーと、がんばってください!」
がんばってであってるかな、とつぶやきながら彼女は帰っていった。

気づくと、彼女から渡された袋を手に持っていた。ヨジンの服だった。
薄手の白いボタンシャツを広げると、あたりに香りが漂った。
まるで天真爛漫に咲く南国の花や果物、スコールが上がったあとの早朝の熱帯雨林のような瑞々しさ。その中に動物の毛皮のような不思議な甘さがあって官能的だった。嗅いでいると頭の中のどこかが麻痺して、身体がじんわりと温かくなる。心地よかった。
自分がじゅうぶん変なのはよくわかっていた。現実を受け止めることにして、深く考えないようにした。

ヨジンに対してだけこんな状態になるとすれば、本人に会わなければ問題ない。
職場が違っていて良かった、と安堵したのも束の間で、すぐに本人が検察庁に訪ねてきた。近づいてくる香りでわかった。

「こんにちは。すみません、今いいですか?ちょっと逮捕礼状の件で聞きたいことがあって」
元気よく声をかけたヨジンは、シモクが明らかに動揺しているのを見て、しまったと思った。無遠慮に近づきすぎた、と気づいた。
向こうはそれとなく顔を背け、目も合わせようとしない。こちらの話は聞いているが、心ここに在らずだった。手で顔を覆ったり、息を止めてみたり、そわそわと落ち着かず、哀れなほど戸惑っているのがわかった。
シモクはいきなりマスクを剥ぎ取って立ち上がると、急いで小部屋に入っていった。デスクのものが落ちる大きな音がして、また足早に戻ってきた。その手に金属製の巻尺があった。
おもむろにテープ部分を引き伸ばし、しゃがんで自分の足元を起点にして床に置いた。
「2メートル、いや2.5メートル離れて話してください。近寄らないでください。お互いのために」

普段の冷静さを完璧に失い、必死に訴えている姿に、申し訳ないと思いながらヨジンは笑いを噛み殺した。
不安げに見つめる係長たちに、小声で「ウイルスのせいです。ウイルス」と教えたが、安心できるはずはないだろうな、と思った。


シモクはヨジンに会う日も会わない日も、その香りへの渇望を必死に堪えた。しばらくすればきっと終わる。それまでの我慢だ。
1日の終わりにようやく、ヨジンの洋服を入れた分厚いビニール袋を開いた。見た目は遺留品や証拠品のようなそれを少し触ると、香りが揺らめくように漂って鼻腔に染み込んだ。

香りがまるで甘い液体になって身体の中を満たすような気がした。一瞬のあいだ、幻も見た。閉じたまぶたの裏にヨジンの姿が現れる。
白いうなじに触れたい。服の中に手を入れて、背中を撫でてみたい。背骨に沿って下から上に撫であげたらどんなに素晴らしい香りがするだろう。
艶やかで凛とした、夕闇が似合う蘭の香り。
まるで自分が、幾層もの花弁の中に迷い込み出られなくなった、虫けらにでもなってしまった気がした。それがなんとも奇妙に安らいだ。
冴えていた頭が心地よい疲労感に包まれ、眠りに誘われる。
恍惚となりながら、これは正常ではない、ウイルスが見せている幻だと自分に言い聞かせた。
正気である自信はとっくになかったが。

数日後、ヨジンから電話があった。担当する事件から離れるという話だった。しばらく会わないので、安心してください。
そう言われると、逆に会いたくなるものだ。預かっているシャツから香りが消えつつあるので、シモクは内心焦った。このままだと我慢が限界を超えて、禁断症状が出るかもしれなかった。想像するだに恐ろしい。

迷ったが、少し遠くから香りを嗅ぐだけ、と思って警察署へ向かった。どうせ仕事は手につかない。
ファン検事がいよいよおかしくなった、と噂されているのは知っていた。おかしいついでにちょうどいい。
しかしヨジンの姿は見えなかった。電話にも出ない。署に聞いてみると、指名手配犯の目撃情報があったため街に出ているということだった。


もうすでに日は暮れていた。
じっとしていられず、場所を聞いて向かった。ざわめく繁華街をさまよった。
はやる心を宥めるように、ひたすら街を歩いた。
どこかに彼女がいる。
足早に歩き続けるシモクの身体は、体温が上がり呼吸が早くなる。その心は身体から離れていき、浮遊する。
得体の知れない力に背中を押されていた。当然の使命であるかのように歩いた。
すれ違う人たちの匂いを感じる。あらゆる種類の匂いの中で、求めているものはたったひとつだった。
かすかな断片を探り当てるように、目指す香りのする方へ足を向ける。花に誘われる蜜蜂のように、進む方向は考えなくてもわかった。

だんだん香りが強くなってくると、喜びで胸が躍った。
もうほとんど走っていた。確信に満ちて角を曲がり、本人を見つけた。
ヨジンは数人の制服警官に混じって何か話していた。
見慣れたその姿が今日は全く違って見えた。彼女の輪郭だけが浮かび上がり、他のものは色を失っていくようだ。
目を閉じるとさらにはっきりわかった。暗闇を切り裂く光のような、鮮やかな香りがそこにあるのを感じた。

「あれ、検事さん?」
ヨジンが気付いて駆け寄ってきて、顔を覗き込んだ。
「なんでここに。顔色が悪いです」
「手配犯は、どうなりましたか」
犯人にはさっぱり関心がなかったが、君に会いたくて走ってきたと言うよりは、ましな気がした。
「空振りでした。解散してもう帰るところです」
あっ、と言って、ヨジンは2.5メートルのことを思い出した。見えない線まで後ずさろうとするその手を、とっさにシモクがつかんだ。
「離れなくてもいいです」
こっちへ来てください、と言おうとしたが声がかすれて出なかった。そっと手をひっぱった。

ヨジンは、自分の嗅覚がおかしかった時のことを思い出していた。頭にもやがかかったようではっきり思い出せないが、今みたいに彼のそばで、何かを強く望んでいた気がする。シモクの黒々と光る目が思い出させた。


ヨジンは近づくと、2本の腕をシモクの首の後ろで絡ませた。
強い香りに包まれた。
圧倒的な感覚が押し寄せ、飲み込まれた。街の喧騒も何も聞こえない。耳元でささやく彼女の低い声だけがクリアだった。 
「こうしてほしくてわざわざ来たんですね」
彼女の脈打つ首筋から立ち上る香りが、昔からずっと探していた宝物のように思えた。手に力が入って、離すまいと強く抱きしめた。
感じたことのない悦びで胸がいっぱいになった。きっと夢に違いない。
死んでもいい瞬間があるとしたら、今がそうだと思った。



翌日ヨジンは退勤すると、病院に行った。
シモクが目を覚ましていた。
あのあとシモクは意識を失って、自分が病院まで運んだのだった。
「道路で伸びちゃうなんて。おぶって運ぶの大変だったんですよ」 
丸一日眠っていたシモクはまだぼんやりとしていた。
口を動かして何か言っているが、聞こえない。近づいて顔に耳を寄せる。
「このままで」

ヨジンの首が見えるように、シモクの指が髪をかきあげている。大人しくしばらくじっとしてから言った。
「もう匂いはしませんか」
内緒話をするように小声だ。
「そうですね、汗くさいです」
笑いが出た。
「もう!検事さんだって!」
げんこつで肩を小突いた。

ヨジンは安心して、ほっと息をついた。
普通に話ができるのがありがたかった。
ウイルスに操られていたころの、熱っぽい眼差しも悪くなかったけど。

私たちはお互いの香りに恋焦がれ、何度も何度も燃える肌を嗅ぎあった。夢の中で。
2人だけの秘密を持ってしまった。
それならこれくらい、どうってことないか。
シモクのこめかみに軽くキスした。
「もうちょっと寝てた方がいいです。お大事に!」
そう言って、病室をあとにした。

シモクは、まだ夢を見ているのだと思った。
それとももう狂ってしまったのだろうか。
幸せな夢の中にいるのなら、それはそれで構わない。
夢でまた彼女に会ったら、今度は唇にキスしよう。
そう思いながら、また眠りについた。




おわり

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