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絶望と生きる意味ってなんだろう

世間では木曜日でお盆休みの真っただ中。

今日もみなさん、お疲れ様。

わたしはランクアップしたんだかランクダウンしたんだか、なんだかわからないままに時間が過ぎている。息継ぎがうまくできなくて酸欠で沈んでいた水槽の底から救い出されて3日目。なのに人一倍繊細な私は家から出ることもできずにただ時間を若さを消費しているように思える。

私は人づきあいが好きじゃない。人と一緒にいると自分をうまく表現できない。人からは人一倍やさしく真面目で純粋な人だといわれる。その言葉の意味が消して良い意味ではないことを私はよく知っている。人よりも感じすぎるから些細なことで息詰まるし、ほとんどの人が『仕方ない』で片づけられる気持ちが片付かない。そしてそれを外に出すことは我儘なことだと受け取られることを知っている。子供っぽいとあきらめろと言われることを知っている。だから人より我慢をするし、人より努めてその気持ちを出さないよう悟られないように隠して仕事をする。…人はこれはHSPと呼ぶそうだ。自分がそうだと知ったのは一年前になるが。

関係ない話だけれど、私がまだ子供だったころ、家族で出かけた時に車の中で『寝る』という行為ができなかった。運転手である父親に申し訳ないのと『何かあったとき』が怖くて、妹や母親が寝息を立てる中でどんなに疲れていても車の外のネオンを見ているような子供だった。そうして同時に車窓から見る行き来する車の様子、夜の森の様子、通り過ぎる町の様子、常に接する世界の情報を収集する癖があった。そうすることでこの世界で生きている実感を感じていた、のだと思う。

この3日、私はこれらの特性に翻弄されている。

今のわたしは町の様子や環境から切り離したところにいて我慢をやめることによってようやく自分を形作るものがどういうものだったのか思い出している最中だ。なのに、それらを大切にしようと情報を遮断する度に、この世界で生きている実感がなくなる気持ちが大きくなっていく。だからか、家でどんなに体をケアをしても、読書をしようと本を手に取っても、気持ちが前向きにならない。

…なにがそうさせたのかもわかっている。

しかし、どうしていいかわからなくて、結局ずっと家から出れないでいる。誰とも交流せず、家にいる間だけは自分の意志で自分の思いでいられると確かに実感できる気がするから。

…気持ちが後ろ向きになっているだけといえたらどれほどよかっただろう。

ただ、勘違いしたくないのは…自分がかわいそうだと思っているわけではない。むしろこの世界でよく頑張って生きてきたと思う。無理な注文も意見も私を傷つけてきたいろんな人の言葉もうまくいなしてきたと思う。そういう気持ちを持っていても、それでもいつまでたってもちっとも自分が思う努力の結果にはならないこと、いつも誰かに邪魔をされ、いつも誰かに足を引っ張られている事実を見過ごすことができないのだ。

その誰かが嫉妬心や悪意を持った人たち、だと分かっていても。

ここまでまとめてようやく、自分の次の目標が少し見えた気がする。

もっと強くなりたい。誰にも負けないように、傷つかないように。

そして誰も傷をつけないように。

そのためにどうしたらいいのかまだわからないけど。でも私の形はその思いの先にあるのだろうと少しだけ感じた。

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