自分の限界を認める勇気を持つ。
こんにちは。性依存症当事者のShiroです。
このところ、自分を追い込みすぎていたことに気づきました。
完全に、自分の許容範囲を超えたタスクを、自分に課していたなと。
今まで英語なんかほとんど使わない環境にいたのに、この1年で、英語文献やテストの翻訳、海外の依存症当事者との交流に、大学の勉強まで英語でするようになって、「自分ならこのくらいはできるはずだ」と自分に言い聞かせて必死に走ってました。
何と言えば良いのかわからないけれど、「性依存症から回復したい」という気持ちと、「今までの人生の分取り返してやりたい」という欲で、ここまで来たなという心境です。
過去は変えられない。なら、これからの人生で巻き返してやりたい。
苦しんだ経験は、無駄にしたくない。
そんな気持ち。
でも、そもそもこの理屈が非常に自己中心的で、身勝手な発想だなと気付かされて、その時にぽきんと心が折れてしまいました。
人生を巻き返したいとか、苦しんだ経験を無駄にしたくないとか以前に、私はまだ「回復の途上にいる」わけだし、「損した分は取り返す」という思考回路は、ギャンブル依存のような、歪んだ思考回路だな、と感じたんです。
私たち依存症当事者は、歪んだ思考回路から、依存行動を正当化して、また依存症の深みに自らはまっていきます。
この歪んだ思考回路を放っておいては、私はいつかまた失敗する。だから今、変わらないといけない。
なので、「今の自分は頑張りすぎてキャパオーバーになっている」と素直に認めて、数日勉強をさぼりました。大学の単位、落としちゃうかもしれないけれど、それは「これが自分の精一杯の結果」として、受け入れる覚悟をしました。
自分の限界を認めるのは、とても勇気がいります。
「自分はその程度の人間だ」と、自分に烙印を押すような感覚が、とても怖いようにも感じられます。
でも、「その程度の人間」が必死に積み上げてきた努力は、限界を認めて結果を受け入れたとしても、無駄になることはありません。私がこれまで積み上げてきた努力は、たとえ単位を落としても、ちゃんと自分の経験として、知識として、自分の中に蓄積されています。
「なくしたものを数えて嘆くよりも、手の中に残ったものを認めてあげる」
これが、成功体験の蓄積なんだろうなと感じています。
今怖いのは、白黒思想で「もう無理。あきらめた。全部やーめた。」と投げだしてしまうこと。
そうならないように、少し休んでからぼちぼち頑張ろうと思います。
性依存症当事者の目線から、性依存症の専門書を翻訳した情報や、当事者として感じたことを中心に発信しております。 おもしろいな、もっと読みたいなと感じていただけたら サポートをしていただけると嬉しいです。