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容姿コンプレックスと生きた21年

「わたしの顔って、みんなと違うのかも」と、やりたかったキュアホワイト役を可愛いお友達に譲った幼稚園生時代。
「わたしなんかブスだから、男の子を好きになっちゃいけない」と泣いた小学生時代。
できるだけ顔を隠すために目を覆う長さまで前髪を伸ばした中学生時代、
「可愛い」「女の子」からできるだけ離れようと意識して過激なキャラクターを演じていた高校生時代、
鏡を割っては泣き、メスを入れた大学生時代……
わたしの人生のテーマといっても良い、「ブス」問題。これとの戦いがあまりに苛烈を極めた。就活の「ガクチカ」は、はっきり言ってこれなのだけど、「ブスな自分と戦いました」なんてのはシャカイでは通用しなかった。わたしの努力は全く評価されないのだと絶望した。「ガクチカ」をライターのアルバイトをしていた経験に書き換えた瞬間、エントリーシートが通過するようになった。くだらねー。

現在のわたしは、もし「自分のことをブスだと思いますか?」と聞かれたら、「そうでもない」と答える。美人とはいえないけど特筆してブスってほどではない、普通の顔だと思う。「顔面偏差値」(嫌いな概念)で表せば、人によりけり40後半〜50とすこしだろうなあという意識で生きている。これを読んで「自惚れるなブス」と思った人はごめんね。容姿コンプレックスとの戦争は、ひとまず休戦状態なのだろう。歴史の教科書に載っていた、「火を噴く38度線」という言葉を思い出した。なんだか語呂が良くて、何年間も頭のなかで反芻した言葉だ。話が脱線したけど、ただ、わたしの最も厄介なパーソナリティのひとつとして「完璧主義」がある。今まで金魚が飼えるほど涙を流したのだから、せっかくならば満足のいく顔にしたい。自己評価で(ここが重要)「普通」ではなく「満足」に到達してやりたいと思う。あと二箇所の整形でゴールだ。終戦も近い。「どうして整形するんですか?」とよく聞かれる。無理もない、珍しいだろうし。理由はいくつかあって、まず「もう二度と容姿で損をしたくないから」。「容姿に縛られたくないから」「逃げ道をなくしたいから」「女の子になりたいから」。

まずひとつめ、わたしは容姿で悲しい思いをしてきた。高校3年生まで、ずっと肥満児だった(今もいわゆる自粛肥りをした、猛省)。小学1年生の時、祖父が亡くなって、法事のために帰省した。夏の岩手は気持ちのいい暑さで、毎日ブルーベリーやら胡瓜やらを採った。水道水は井戸水で、金盥を水で満たしてそれらを洗うと、気後れするほど清浄な感じがした。そうしているときに、遠い親戚のおばさんが来て、「佳澄ちゃん、久しぶりだべ。なんだがお姉さんになったんでねが?」と。めちゃくちゃ人見知りだったので、聞き取りづらい岩手弁で話しかけられるのも嫌だった。そのおばさんが何の気なしに「女の子は器量が悪くても大丈夫だべなあ」と言った。ショックだった。多分、「器量が悪い」の意味がわからないと思っていたんだろう。マセガキだったため、理解してしまって、あとから泣いた。夏になると、胡瓜を見ると、冷たい水を触ると、よく思い出す。七五三では、好きだったピンクのドレスを遠慮して、渋い抹茶色を着た。これが始まりだったなあ。
それからは、通りすがりの男の子にすれ違いざまに「クソブス」と言われたり、3人組で仲良くしていたのに他の2人だけで遊んでいたのがわかって落ち込んでいたら、「ブスだから誘いたくない」と陰口を言われていたり、なんとなく女の子扱いされなかったり。美人の母親に見た目をよくバカにされた。「ママに似なくてかわいそうだね」「鼻が潰れてるよ」「目開いてるの?」「可愛くないから産まなきゃ良かった」。鏡を見るのがどんどん嫌になった。小学生のとき、よく突っ伏して大声あげて泣いた記憶がある。とくに服屋に行くとよく泣いた。服が可愛かったから、こんなブスなわたしが着るのは気持ち悪かった。ゴリラがおめかしをしているような滑稽さを自分に感じた。この頃の写真はあまりない。
高校生の時は、2年間好きだった人に告白して振られた。本人には「いい子なんだけどなあ」と言われ、後日共通の知人から「もう少し可愛かったらなあって言ってたよ」と言われて相当塞ぎ込んだ。彼は全く悪くない。確かにブスだった。共通の知人は一切許してない。それをわたしに報告して楽しんでいるふうだった。
大学1年、付き合っていた人がまだ友人の頃、「俺は顔を重視する」と言っていた。顔で選ぶのは当然のことだ。わたしだって顔重視だし。その彼が彼氏になった頃、「佳澄は中身で選んだんだ」と言った。顔を重視する人に中身で選ばれても全く嬉しくなかった。この人と付き合っていた時はずっとずっと申し訳なかった。よく、「ブスな彼女でごめんね」と泣いていた。すげーめんどくさいだろうに、毎回懸命に励ましてくれた。別れるその時までずっと、その後ろめたさは消えなかった。顔が可愛くないのだから、せめて髪型は好みにしないと、せめて服装は好みにしないと、とすごく神経質になっていった。黒髪ロングをやめられない呪いはこの時のものだろうね。「短いスカート履かないで」と言われて履けなくなったり、髪を勝手に切った、と怒られたり……
彼は綺麗な顔だったから、彼が他の人に褒められる度に惨めさと申し訳なさで泣いていた。褒めた人も、良かれと思って言ってくれたのにね。いろんな気持ちを無下にしたと思う。
今はひとりぼっちだから、申し訳なくなる相手もいない。いいんだか悪いんだか……

ふたつめ、容姿に縛られたくないから。なにをしてる時にも自分の姿は気になる。それで行動が憚られることがある。料理を作っていても、部屋の掃除をしていても、電車に乗っていてもずっとだ。自分がブスなら「料理を作るブス」「電車に乗るブス」、おちおち電車にも乗れなかったのだ。美人なら「部屋の掃除をする美人」になる。美しい人のすることは全て正解だ。笑われている心配をしなくてもいい。胸を張って電車に乗っていい。思い出したけど、中学生の頃の彼氏と電車に乗っていて、女の子2人組に「彼氏はかっこいいのにね」と笑われて顔が真っ赤になってしまったことがある。彼は聞こえていないのか聞こえてないフリなのか、わからなかったけど。とにかく、ブスを理由にできないことがあるのが嫌だった。ビクビクしたくない。こういうことを言うと、「顔変えるより意識を変える方が早い」と言ってくる人がいる。わたしは意識を変える方が何倍も難しいと思う。染み付きすぎた考えかただからなのか、もはや反射に近いくいのものになっている。わたしにとっては、氷に触れて冷たいな、と思うのをやめろと言われているようなものだ。無理!顔変える方がラクだよ。でも、「顔を変えて自信をつけて意識を変える」ことを目的にしているのではなくて、「顔を変え」て、「なんだ、人生顔じゃないじゃん」と、こういう方向で執着をなくしたい。人生顔が全てじゃないことくらい、頭では理解している。肌でもって理解したいだけ。美人は全て上手くいくなんてクソ失礼なことは思ってないことをアピールさせてほしい。

みっつめ、逃げ道をなくしたいから。これはちょっと分かりにくいけど、「顔のせいにして楽をしたくない」と思った。何かが上手くいかない時には「わたしがブスだからだ」と思う思考回路で生きてきた。本当の落ち度がほかにあっても、薄々わかっていてもそう考えてきた。不思議なことに、自分でそう唱えていると本当に自分まで騙せてしまう。楽だった。顔なんて生まれつきのどうしようもないものに失敗の理由をこじつけられるのは本当に楽だった。だってわたしのせいじゃないじゃん。これをもうやめたくなったからだ。

よっつめ、女の子はになりたいから。わたしのようなレベル帯のブスは「女の子扱いされない」のに「女扱いされる」。女の子として他の子のように扱われることがなく、ネタキャラ道化になってしまうのに、性欲はしっかり向けられる。奇跡の悪いところ取りだ。「お前女じゃないw」と笑われながら、結局セックスの誘いを受けて絶望する。「色気のあるブス」は我ながらかわいそうすぎる。なまじっか「女っぽい」雰囲気を醸しているから、「勘違いブス」だと思われやすい。その弁明のようにネタキャラに徹する。「このブスなら」と乱暴に性の目を向けられる。本命になる女の子は大切にしたいが、ブスにはそんなことする必要はない。わたしはそれに甘んじるしかない。「女の子」を諦め、「女」を拒否すると、ただのブスになってしまう。誰もこちらを見ない。これで理由4つ全部だ。

手垢のついたことを言うようで憚られるが、容姿コンプレックスの問題は結局自己満足に帰着するとしみじみ思う。でも、こういう文言では「自己満足」という言葉で容姿コンプレックスを軽んじるというか。軽んじるまでは言えなくとも、この定型文、いつも少しだけそんなニュアンスは感じる。鏡も割ったことないヤツに説教じみた恍惚さで幾度となく言われて、お前のオナニーにわたしを使うなと何度も思った。「自己満足」なんて、人生で最も重要なことなんじゃないかなあ。最初から最後まで、一生付き合っていくのは自分だけって思うとなおのこと…… だってみんな一生住む家妥協したくなくない? しかも住んでる家で人生の選択肢結構決まる世界線だと仮定したら最悪じゃん。それでその家はクジ引きで決まるんだよ、ありえないよね。

「容姿で人を判断する世界が間違っている」という言葉、よく聞くが、間違ってないと思うな。世界って人間の集合だしそんな大したもんじゃなくない?悲しいかもしれないけど、単純に人数の問題で世界を変えるより自分を変える方が早いよね。でも自分には優しく生きたいよね。みなさんも頑張りすぎず、ご自愛ください。

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