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論理と正しさを盲信すること

あなたにとって、言葉はなんのためにありますか。
別になんでも「正しい」んだけど、わたしの言葉はたぶん自分のためにあるなと思う。鏡を見るように言葉を使っている感覚がずっとある。意図はなんにせよ(髪型が気になる、ちゃんと可愛いか確認したい、もしかして鼻くそがついているか?)、その時々の自分を見ることに目的があって、そういう意味で、「言葉は鮮度が命」とずっしり感じている。このnoteの下書きにも流産した言葉たちが累々としていて、申し訳ないような寂しいような感じだ。

わたしは、アルバイトで大学受験の国語を教えていた。種々の事情で、もう行かないけど。そこでは、しばしば「論理的」で「正しい」日本語を扱った。そうしていながら、わたしが好んで聴く音楽の歌詞は、いくらか均衡を破るどちらかというとヒステリックなものがほとんどだった。その「正しくなさ」がむしろ的確で鮮烈で痛いほど深かったような気がして、わたしはたくさん救われた。救うというのは、あかるい方に手を引いてあげることだけではなくて、一緒に沈んであげることでもあるなと思った、関係ないけど。
その2足のわらじ(?)生活をしていると、「正しさは正しいだけのことが多いな」と感じるようになった。そう思うようになった途端、世間の「正しさと論理への盲信」が惜しくなった。もっと感情を大切にしてほしい。
たとえば、どうしようもないクズ男と別れたほうが正しくても理にかなっていても、別れたくない気持ちがあるならその相反する論理と感情に優劣はないと思う。それは本人が決めることで、さも揺るがない事実のように「一時の感情に流されるのは馬鹿だ」などと言ってしまうのは悲しい気がする。そもそもそれが「一時」かどうかなんて誰にも決められないはずなので、論理と感情は完全にイーブンであるべきだ。でもどうしてなのか、世間がそれを許さないような雰囲気がある(世間なんてものは蚊柱程度のものだけど)。たぶんそれは苦しい時もあるし、やさしい時もあるけど、知っておくだけですこし楽と思う。

どちらを選ぶのも個人の自由だけど、朝6時に起きて洗濯して、雲が灼けているのを見ながらコインランドリーで乾燥が済むのを待っていると、なにかふと思ったので書いた。書いているうちにすっかり青空になってた。ところで、今日はパンツが枯渇したのでノーパンで過ごすことにします。寒いね

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