見出し画像

何枚でも

私と風花のスマホには、それぞれに同じような写真が何枚もある。
それは、チャム(愛犬)の寝ている姿。
チャムが我が家にやってきてから、15年経つ。
最初の何年かは成長が良く分かる写真が撮れた。
でも、数年経つと顔つきは多少変わっても、こうした寝ている後ろ姿はあまり変ることはない。
むしろ、同じ写真を年をバラバラにされたら、どれが新しいかなんて毎日一緒に暮らしている私達でも分からないだろう。


それでも、なぜ何枚も撮ってしまうのか。
愛しいから。。。は、誰にでも想像がつく通り、間違いはない。
あとは?可愛いから、気持ちよさそうだから・・・
それはそうだけど、私達は言葉にこそしないけれど
当たり前にあるはずの姿があっという間に見れなくなる事を知っている。

2010年、子供達は父親を私は夫を病で失った。
それは、あまりにも突然で唐突なスタートだった。
闘病期間はそう長くなく、彼は患ってから数か月で私達とサヨナラした。
まだ、これから父親と思い出を作ったり、反抗したり、泣かせたりと
親子の時間を作るという前に居なくなった。

目の前で消えた命の息吹は本当にあっけなく、悲しい思いと一緒に
死とはこんなにあっけないものなのだと教えられもした。
それを知っている私たちは、普通に見る事のできるこの幸せな光景が
じつはかけがえのないものと分かっている。
そして、いつなくなるかもしれないことも。
愛しいものがあっけなくなくなった後、もっとちゃんと見ておけばよかった。もっと、ちゃんと感じておけばよかった。と実感しているから。

画像1


だから、私達は何枚でも撮る。
生きている証拠だから。それは、私達が生きている証拠でもある。
写すことが出来るのは、今この時間を共有出来ている証拠。

チャムだけではない、愛しいものをすべて撮る。
時間を残す。

きっと、明日晴れた時にこうして寝ている姿を見かけたら
「もう、何枚も同じ写真なんだけどね~」と言いながら
でも、それは幸せの合言葉

少しでも多く、少しでも長く、この時間が共有できるように

今年もたくさんの愛しいものを撮れますように

#note書き初め

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?