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期待値、低めで。

自分ではどうにもならないようなことに対して、期待値は低めがいいと思う。
期待値が高いと、その通りにならなかった場合のガッカリ感や怒り、悲しみなど、ネガティブな感情の振れ幅が大きくなるから。

感情が忙しなく上下するというのは、結構疲れる。

これはネガティブなことじゃなくて、嬉しいことに対しても言えるのだけど…。
嬉しいことなら、まぁ、疲労も心地良く思えるからそこは許したい。

って、話がそれちゃったけれど、私はなるべくフラットな気持ちで日々を過ごしたいのだ。
だから人に対しても自分に対しても、人だけじゃなくて物事に対しても期待値は低めにしている…つもり。

ソシャゲのガチャとか、PUの時に「PUなんだし!」と期待して回しても、大体来ない。
自分の手元に残るものと言えば『やり場のない悲しみ』だけ…。

人だったら、「こうしてくれたらいいのに…」と思っても、絶対そうなるとは限らない。
自分が人にこれをしたんだから…と思っていても、相手はそのことに気付いていないかもしれないし、「されて当然、当たり前のことだ」と思っているかもしれない。

そもそも、自分が相手に「これをして」と言わずに「察してよ…」と思っているだけだったら、そのことが実現することはほぼ皆無だし。
相手の立場に立って考えたらわかると思うけど、言われてないことを察しろって、「私、エスパーじゃないし!そんな機能ついてないし!」である。
自分は相手の希望を分かろうとしないのに、相手に自分の希望だけは分かれっていうのは無理がある。


なので、私はなるべく人にも物事にも期待しないようにしている。
何かして欲しいことがあったら(あれが食べたいから買ってきて…とか)、ちゃんと伝えるようにしている。
何も言っていないのに、「そこに行ったんだから、ついでに買ってきてよ〜」はおかしいのでね。


因みに、普段の、自分の出来る範囲とか、自分のやる気とか、幸せ具合とかも期待値は低めで考えている。
ここぞと言う時は「自分だって出来る!」と鼓舞するような言葉を口にしたり、考えたりするけれど。
0から100の範囲で自分に幸福ゲージ、やる気メーターがあるとしたら、大体10から30くらいの低空をふらふら浮遊中と思うようにしている。

その方が、嫌なこと、悲しいこと、腹立たしいことがあっても、「まぁ…そんなこともあるか…。だって、それ程、今の状況が好調だと思ってないしな…」と湧き上がった感情に対して、すぐに冷静さを取り戻せるから。


まぁ、だからと言って、私が絶対怒らないと言うわけではないんだけど。
期待値低めで…と思っていても、状況によっては気づいたら「こうなったら良いな。そしたらあれも出来るだろうし、これも出来るし…」なんてことを考えてしまうことがある。

そうすると、希望通りの状況にならない時には、勝手にイラッとするわけで。

そしてその嫌な気持ちはその後もある程度、引きずる。
『なんでこうしてくれたなかったんだ、あんなに時間を取ったくせに…!』とか、『協力してくれたって良いじゃないか!』とか…。
気持ちがキーキーする。

ただそれをいつまで考え続けるか…ということだ。
翌日も、その次の日も、延々とその感情と共にあるか…というと、そうでもない。
吐き出す場所はちゃんと確保してある。
そこに吐き出してしまうと、気持ちが楽になる。
だからその日の内にさっさと吐き出して、終わりにする。
それ以降はいつまでも引きずらない。
引きずるようなら、改めて、その場所にその感情を吐き出す。とにかく吐き出す。全部。
(これについてはまた今度)


始めに書いた通り、この吐き出す作業も上下する感情を見つめる影響で、結構疲れる。
だから、最初から、物事のそもそもの期待値は低めにしておく方がいい。

「これが上手くいって、その影響でこうなったら良いな…ああなったら良いな…」

妄想するのは自由だけど、妄想は妄想であって、絶対叶うものではない。
「絶対」ほど期待値の高い言葉はないと私は思う。


期待値は低い方がいい。

10回期待して、1回喜んでも、9回怒ったり、悲しんだりするくらいなら、感情の起伏は少ないフラットな人でいたい。

期待していなかったけど、1回楽しいことが起きた!嬉しいことが起きた!と、その時にたっぷり喜びの感情を味わう人でありたい。
例え小さな喜びでも「嬉しい(ニヤニヤ)」と、そんな風に過ごしたい。

だから、期待値は今日も低めで。