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非能動的なカウンセリング

性被害者の被害後のカウンセリングによる改善率について、データを
探していたのだけれども、見つけることが出来なかった。
厚生労働省、警察庁のどちらかがでもが出していてもおかしくはないと思ったのだけれども。
カウンセリングなどの精神療法は被害者にとって辛い精神的苦痛を改善、軽減するといわれている。
しかしながら、そのカウンセリングによる効果は被害者によって大きく違い、カウンセリングが直接的に被害者にどれほどの効果を寄与するのかは、
本人のカウンセリング外での環境、持っているパーソナリティ、または心理士の技量や相性により大きく左右される。
カウンセリング自体は、被害者が頭の中で巡らせ続けることを言語化と言う、形にすることが出来、そしてそこに利害関係もなく秘密がもれることもない、そしてそこは安全な場所である。
性被害などの犯罪被害によって、突如経験しどう扱っていいのか自身のもつキャパを越えるような出来事を「概念」として対処する手段を得るためなのだ。

しかし、それには当たり前に条件がある。

と私は考えている。
それは「能動性」である、これがなければ何千回行っても変わらないと最近思い始めた。

例えば、私の幼少期。
習い事として、絵画、ピアノ、バイオリン、そろばん、書道、裁縫、塾。
と多岐にわたるものをやってきた。
では、この中で身になったなと思うものは何かと言うと「裁縫」だけなのだ。それ以外は、行かされて行っているから意味がない。
他にあるといえば、硬筆。
ピアノやバイオリンに関して言えば、私はD型短指症という奇形があるので、弦楽器などが苦手である。ギターで言えばfを押せないどころか届かない。リコーダーであれば、小指が短いがゆえに塞げないなど。
そもそも、「やろうと思っても物理的に無理」というケースがカウンセリングにも当てはまるのではないかと思っている。

「内省する覚悟をして、変わっていく自分を受容する力と言う能動性」

ではないかと思う。
カウンセリングに行き初めて7年程度が立つ。
ここ数か月、寝坊をして慌てて電話をしたことがあった。
今の私には、知ることも、知らないことも全てが恐怖であって、
小さく紡ぐ言葉の中にどれくらいの純度の高い本心があるだろうと
カウンセラーは教えてくれる人ではない、道程を教えてくれるものでは
なく、ヒントを小さく投げてくれる、または言葉からその言葉に隠されているものをくれる人だと思っている。
そこに能動性がなければ、または、偽りをもってとりあえず小手先のやりくりでしのげば、当然のことながら自身の自己矛盾と言うものを抱えてしまう。そこに複利がついて坂道を転がった小さな雪はいづれ大きなものと
なってしまう。
前回、カウンセリングを欠席したときには私は心から絶望的だったと思う。
私は、PTSDの治療だけでなくて、被害の際に負わされた第二腰椎圧迫骨折の後遺症の治療もしている。その治療が、まったくうまくいかない。
それを受け入れることは出来ないと思ってしまった。
「加害者がしたことの被害全てを被害者が負い続けるのはおかしい」と。
日本政府が加害者に対して、頭からつま先まで世話をする。
しかし、被害者は日本政府からの支援というものを考えたときに、
犯罪被害者給付金制度しかない。その支払い自体のハードルが高い。
そのようなことを考えていたら、「何で私がこんな現実に努力しないといけないのか」と思えてカウンセリングに行けなかった。

そして、これから先、このカウンセリングを続けていたら本当によくなるのか?と来年37になる自分がどうやっても10年前のような若さはない。
尖ったように寒々しい空に比例して厭世的なこの気持ちを今日も抱きながら、カウンセリングに行く。

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