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発達障害と犯罪被害者を用いた形の自尊心の充足

今日までの35年を振り返り、生きていること自体が苦しく感じる。
沢山の人が私の命線をつないだかもしれない。

私は10年前に犯罪被害者になった。その時点で十分に傷つき奪われたと思う。それでもなお、自身の精神的充足や承認欲求を満たすために、犯罪被害者の心理機序、現在の司法の状態すら学ぶことなく、さも性被害者の味方であるかのように近づき、傷をえぐる人と出会った時、もう本当に死んだ方が楽だと思ってしまった。
私たち犯罪被害者は、その人たちの承認欲求などを満たすために存在しているわけではなく、正しい形で世間に訴えかけ、法を変えようとしている。私は、理解を深くしていないのであれば、自分の抱えられる分野でなければ「その人たちに幸福を神の名のもとに」と祈る程度でいいと思っている。無知によって、自身の中では善意のつもりが被害者を多く傷つけるケースは目に余るほどにある。
先日のスペースで私は、波風を立てないように言葉のチョイスを誤った発言も異論を立てることなく聞いていた。しかし、心の中では「よくこの言葉言えるよね」と思っていて、他の方が指摘してくださり私は「以前のスペースの発言もおかしいと思いながら聞いていた」と言うことを言った。しかし、その方の特性上か論点をずらし、幾度となく同じ話を繰り返すに至ってしまった。私は、犯罪被害者の現状を「社会の構成員の一人として理解して」などと思っていない、人には主義思想があるので理解が出来ない人もいて当然で、加害者側の擁護をする人がいることも「そちらの支援も必要よね」思っている。そのかたは今までPTSDの人を治してきたと言ったが、他の人が言うように「この人と関わることがもう危険だから、体よく治ったと言って去っていった」と言うのが正しい答えだと思っている。

私は、性犯罪だけでなく身体に対する犯罪に遭った被害者の方と話す機会が多い。私はその人がつながるべき場所に繋げるということが正しいことで、個人的な精神療法的なことをやっていいとは思わない。それがどれだけ危険な事か、臨床心理士ですら分かっていないケースがあるからだ。最後までその人が、安全な場所にたどり着くまで見守れないなら初めから手を差し伸べるべきではない。

SNSの特性上、その人のパーソナリティを私は知ることが出来ない。

失言に対して「発達障害だから」と言っていうのと、パニック発作が起きてる人に「それを抑えろ」と言うのは無理だろうと同列の様に語っているのを読んで、発達障害は生まれ持ったもので多くは長い時間はかかるけれども、ABAやカウンセリングなどのソーシャルスキルトレーニングで平均化まではいかなくとも、改善することが出来る。パニック障害は治癒はなくとも、寛解する可能性があり、思ったことを思ったまま言ったり、遅刻などをする疾患ではない。故に、「パニック発作で思ったことを思ったまま言ってしまうのです」と言う言い訳はほぼ聞かず、まず、ずっとパニック発作は起きていないのである。まず発達障害は生まれたときから発達障害で、途中からその様な状態をは反応性愛着障害と呼ばれる。いま医師界隈が「大人の発達障害問題」を話す機会があるが、「診断をつけるけれど、それを言い訳にするから、努力してTODOリストなどをつけている人が差別される温床となっている」と。
疾病利得の様に免罪符で発達障害だからと言って許されることはない。じゃあ、発達障害の人が「発達障害だから、犯罪をしてしまった」と言って、「それなら仕方ないね」となるどころか、尚更危ないと司法は判断する。

人には適材適所と言うのがあって、「この世の中の全てを理解しろ」など誰も言わない、できることをしたらいいだけなのである。

理解できないことを理解したように、犯罪被害者に接触して傷をえぐることでPTSDが治るのならば、誰も苦労しないでしょと言う話なのだ。

発達障害の方は、対人スキルを築くことが難しい。いわゆる発達障害の三つ組みであるが、それを診断され、自認しているのであれば尚更のことセンシティブな内容に理解も浅い状態で踏み込むべきでない。
私が犯罪被害者と関わる際には、まずアドバイスは現実的なものしかしない。自身の精神的な部分を持ち出しても、その方にフィットするかどうかなど全くの別問題だからだ。

今回、私は日常生活がおかしくなる感じを強く感じて、知人の法律家に相談をした。「発達障害の人は法の前で一転二転出来ない経験をしても、犯した罪の判決理由を受け入れない場合、例えば執行猶予を言い渡したらもうなぜその判決になったかすら聞かないケースがあって、そういう時は主文後回しにすることがある」と言うのはそういう理由だと。

私は、発達障害児との関りが多くABA(応用行動分析)やペアレントトレーニングを通じて、発達障害当事者の方と話すことが多かったが、何かを注意されたら「注意されている」と言う事だけ考え、何をどうして注意されているかは全く入らないという経験を多くしている。そして、こだわりの強さから自分に起こった出来事をその人たちの所為にするなどで、更に孤立していく。

ある大学教授とこの問題について話していた時、
「残念だけど、発達障害の人たちに常識を理解しろと言うのは無理で、家族であれば寄り添い受容し、困り感を福祉や医療を利用しながら接していかなければいけないけれど、それでもカサンドラ症候群になる人もいる。ましてや、会社の同僚や友人の発達障害をすべて理解して、不快な発言や行動を甘んじて「発達障害だからしかたないね」と受けいれる必要はない、彼らは自身が行っている事を時に発達障害だから仕方ないだろう、なのに何で責めるんだとなる。そこまでして彼らとの関係を利害関係もない中で抱えていたら抱える側がが精神疾患になってしまう」
ということを言われたことがある。
職場にいた、発達障害の同僚に皆が振り回され「なんでこんなことを顧客に言ったんですか」と問えば「思ったからです」と。謝罪に同行しても謝罪はするが「でも」と自身の謝罪を打ち消してしまう。私自身、そういった経験をしているから、なるべく積極奇異型の発達障害の人とは関わらないようにしている。差別ではなく、私には彼らを受容することが不可能だからだ。会社も受容できず、結果的に予告通知と1か月の給与を支払ってでも退職してほしいとなってしまった。
発達障害の人と働くというのは社会構造として必要だが、他の職員がカサンドラ状態になってしまっては意味がない。
その方が解雇されてから「あの人はもうこの会社には関係ない、一生発達障害を言い訳に生きていけばいい、それくらいにこちらは被害を被った」という上司の言葉を覚えている。
恐らく、今回の方はそういった属性なのだろうと思う。
私は理解できないものは、理解できない。
それでいいと思っている。
それは、犯罪被害者などの社会的マイノリティの現状を理解できないなら理解できないでいいというのと通ずる点があると思っている。
自身が発達障害で多くの失敗をしてきたと自認しているなら、その特性を少しでも楽にすることだけに注力したらいいのだ。
少なくとも、犯罪被害者の権利拡充をしている人たちの足を引っ張るようなことだけはしてほしくないと思った次第である。

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