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弱音

昨日、0時に眠り一度朝食を用意し、また眠って起きたら17時を過ぎていました。カウンセリングの次の日の精神的な摩耗感と言うのは私が体感している以上に大きいのだろうかと。

何で、生きていかなければいけないのか。と言うことを虚ろな状態で考える。もうこれ以上の苦しみであるとか、痛みで何度も夜中に目が覚めること、寝返りも自由にできない。恐怖であるとかを感じる日々があとどれだけ続くのだろうと思うと、タナトスの誘いは時々、極彩色をまとって襲ってくる。

少し前、もう駄目だったら電車に飛び込もうと思いながら1日1日を何とか生きてきた。確実に後戻りできない方法でないと、また同じことを繰り返してしまうと。先ほど、精神安定剤を飲んで少し効いてきた気がする。

私自身が自ら選んだ人生と言うものに後悔と言うものはない。しかし、一方えられてきた物事に関して、私は迎合し続けたと思う。幼いころから、親の思うような人間になるために強迫性障害になるほどに追い込まれた。祖父は大正14年生まれの人で、私には母がいない。母は10か月の時に男性を作って家を出ていった。その後、親権争いが始まった。祖父母にしてみれば、初孫で一人っ子の父の初めての子である。故に、父は私を引き取る気はなかったが、祖父が父の名を借りる形で裁判などで私をめぐり、家に職員の方が見に来た時、「キティちゃんのすだれ」を見て、この家ならこの子は幸せに暮らせるだろうと言ったという。「キティちゃんのすだれ」だけである。祖父は単純に自分の家系が途絶えるということの危機と世間体だけで引き取ったことは簡単に分かるようなことしか言っていなかった。私は家を出るまで、この家と言う場所は地獄だと思っていた。あまりに「こうあるべき」として育てられたことで喜怒哀楽をうまく表出出来る人間ではなかった。それが、結婚して子どもを持ち替わった。しかしその期間は、6年ほどで終わるのだ。犯罪被害と言うものの恐ろしさが凝縮されている。

「人間らしく生きる、と言うこと自体が被害者に与えられていない」と言う現実だった。

犯罪被害を通して、嫌いにならなくていいものを嫌いになったりしていった。自身の生まれたこの日本と言うものに誇りを持っているナショナリストだった。しかし、私はナショナリストではなくなった。もう期待を持つだけ、私は裏切られ続けると学習してしまったからだ。

昨日のカウンセリングで「私は今まできれいごとで被害に遭ったのが自分でよかったと言ったけれど、事実を突き詰めれば何で私だったんだ」と言うエゴの気持ちを漏らしてしまった。少し、付け加えると被害に遭ったのが私だったことは幸いだったかもしれない、ある程度の達観した感情と分離した部分で被害を俯瞰で見れるという特性がある。しかし、それがゆえに「なぜ被害者がすべての負担を負うのか」と言うさらに突き抜けた哲学的な気持ちになってしまうこともある。

私自身は生きていることで誰かに何かを残せているのかと言う気持ちになる。本来、精神的に大きく迷いアイデンティティを確立していく娘の心であるとか、不惑の年を数年後に控えている主人のアイデンティティを私は壊し去っているのではないかと思えてならない。

時々考えてしまう、その事件に遭ったときに命を召し上げていってくれたら、私は自殺未遂をしたりして家族を悲しませなかった。納得に至ることはないが、不可逆的な他者による殺害で死んだならば、私は…。

私は昨年、会社を辞めたので家でたくさんの気遣いを無駄遣いしている。私の存在が何になっているのか、カウンセリングで語ることが本当に私の回復につながるのか、毎日飲む薬の意味も分からなくなってきた。

いよいよ、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍の限界と言うものが少しだけ見えたような気がする。現実に目をやれば、不条理な世界に置かれている自分のみじめさであったり、それでいてもこの不条理を変えたいと思う自分がいる。多分、私がこの事件が起きたときから戦い続けてこれたのは、本当に単純な社会的に正しい怒りを用いた復讐劇だったのだ。活用できるすべてを活用して、戦った。人生で負けたことはこの犯罪被害以外には存在していないと思う。負けていたかもしれないが、負けたと思っていないだけかもしれない。

けれど、加害者が死亡したらどうなるだろう。私はもう、当事者としての立場から生命を絶って逃げた加害者に怒りをぶつけることも、被害回復をさせることも出来ない。自分の中の唯一の、狂った性善説がすべて刹那に流れていった。その様を眺めるというのは、とても屈辱的である。

犯罪被害者当事者の方やご遺族の方が、もうこの現実を見て生きていくくらいならと自死を選ぶことがある。その気持ちは痛いほどに分かる。眼を瞑ったところでこの被害は脳裏に浮かぶ。そして、どれだけ渇望したとて二度ともとに戻らない。その事実はも頭で分かっている、でも返してほしいと思うのが人間の気持ちなのだろう。

十分に苦しんだじゃない、苦しみ切ったじゃないという気持ちが今の私の心に渦巻いている。私がカウンセリングで語ったことって、結局は無力感を再度感じる機会になっているような気がする。私は運が良かったとおもう、セラピストや心療内科医が信じられないほどに私の命をつなごうとしてくれている。だからこそ、私は昨日、カウンセリングの帰りに駐車場から見える高層ビルを見なかった。見てしまえば、私はそこから自身が解放されるために飛び降りる様を描いてしまうから。

生きること、生きることなんだって。

私は、親友を11年前に亡くしている。乳がんだった。まだ30代にもなっていない。離れた県に住んでいたので、私は祖母の介護をしつつでお見舞いに行けなかった。「〇〇ちゃん、お風呂出たらスカイプで話そうね!」と言う言葉に多忙で私は答えられなかった。最後に「ばいばい、ありがとう」とTwitterに書き残し、彼女は死んだ。私の娘と同い年の女の子と2歳上の男の子を残して。

もう一人の友人は、子どもがいる前で縊死した。彼女は長いこと自傷行為等をしていて、いつもやっている自傷行為の延長だったのだろうと思う。しかし、それを完遂させてしまった。

友人を失うということはとても悲しいことだ、私は今、友人がいない。自身から、人間関係リセット症候群の様に人とのかかわりを避けてきた。だって、無理に笑わなきゃいけないから。もう私に、それだけの力も残っていない。

真面目に生きてきたと思う、何か法を犯したりするような人生でなかった。誠実に生きたつもりである、そうやって生きてきても、不真面目に生きてきた人から私の尊厳であるとかを奪われる。じゃあ、私が真面目に生きてきたこと、最後まで守り続けなければいけないと思ったものには価値がなかったかのような一方的な暴力を加えられたような気持であった。

赤の他人に性的に搾取される、後遺症を残すほどの暴行を加えられるような生き方はしていない。もうお願いだから、これ以上私を苦しめないでよって思ったら、加害者は死亡していた。その加害者の死亡と言うものに私は受け入れ、もう怒りをぶつけることもできないという心の整理を行っている。

全部、被害者におしつけて自分は死んだら「はい終り」ってあんまりじゃないかな。

私は意図しない形で誰かを傷つけてこの10年生きてきたと思っている。家族含め、慰めの言葉を掛けた友人たちを。

「私はこんなことの為に生きてきたんじゃない」

とずっと思っている。けれど、そうやって無意識に生きてきたのだと思う。そこには私が被害を通しての加害をしているという現実がある。

どうやって贖罪すればいいのか、その道しるべなどは存在していない。時が流れ、いずれ私の命が終わるときに答えが出ているとも思わない。

死ぬ瞬間に最後考えることはきっと「あの25歳の寒空」なんだろうと思う。

そういった気持ちを抱ぎながら生きている人たちがたくさんいる、だからこそ私は、自らの命を絶つということをしてはいけないと思っている。抗えない病気に掛かってしまったら、私は治療をしないと主人に言ってある。もう、抗いたくないからだ。

事の真相なんて、当事者を回避した人々にはわからないだろう。犯罪被害者を奇異の目で見て「運が悪かった人」と結論づける。けれど、それは正常な人間の反応なのだ、しかしその人たちが犯罪と言う一方的な暴力、性被害だけでなく奪われたときに「明日をほんの少しでも希望を持ったもの」として生きるために、私には一体何ができるのだろうと考える。

人生、一度ニュートラルに入れてしまったら、ドライブに入れるのはそう簡単な話ではない。

私は、今現在思うのは、犯罪被害に遭ってしまった人たちの哲学を守り、当然の権利が否定されずに守り抜ける社会にすることだと思う。

いつか、必ず私の見ている世界は音を立てて崩れ落ちる様を見る。その時に、せめて「よかったんだ、これで」と思いたい。


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