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地獄の音は止まない

今日は、カウンセリングの日だった。

私は、加害者の死亡を知り、加害者の子から順に相続放棄をしてほしかった。公判やそれ以外での弁護士を通じてにはなるが、やりとりで相続放棄をしていない可能性が高いと思ったから。結局、加害者が死亡してすぐに、息子、両親、祖父母と滞りなく相続放棄されていた。前者でも後者でも、相続放棄と言う結果には変わりないけれども、その過程が大きく私の中の心に暗い音を鳴らした。私が、加害者のした犯罪行為を許していないということを暗黙にでも伝えるには、法的な手続きしかこの日本には存在していない。普通の考えの人間ならば、この1500万円と言う金額は、債務債権の関係にあり貸しているようなものなのだ、みすみす捨てるわけがない。一瞬にしてその金額が消えると分かっていて、私は全員、自分たちが育て上げた人間がしたことの罪をしっかりと見つめてほしかった。結局は性善説に回帰してしまうのだが。そんなこと思うわけないって、分かっているのに。

私が、裏切られてきたのは加害者だけではない未成熟な司法や政府でもある。今日、久しぶりに「どうして、私がこんな思いをして家族も辛い思いをしなければいけなかったのか。そして、最後に私一人に抱えさせるような死に方をしたのか」と言うこと。

それから、実際には加害者は父親の家に居住実態はないだろう。普通に考えて、国保や就職の面を考えても帰住している場所に住民票を置くべきだし、置かないと職権で抹消されてしまう。すべてが嘘だったということ。

私は、金銭に対して大きな執着と言うものはない。なければ、稼げばいいだけだと思っている。だから、持ち出しで費用が掛かり続けようが、怒りをエナジーにして生きていこうと思っていた。そういう気持ちが、死亡と言うたった二文字に集約され、私は怒りを持って生きることすらもが出来なくなった。

一番恐ろしいのは、周りは「もう10年前の事件なんだから、いい加減立ち直りなよ」とそういう言葉だ。第二次世界大戦の前線で今日死ぬかもしれない、明日死ぬかもしれないという体験をした人に「77年前のことなんだから、いい加減立ち直りなよ」と言うのだろうか。

カウンセラーが「〇〇さんが、自分が新しく生きようと権利を行使しようとしたら、さらに辛い現実を知ってしまったことが辛い」と言っていた。

私は、事件発生時から公判まで一貫した供述しかしていない、民事訴訟も自分が失った対価にふさわしい金額を請求しただけで、何一つ間違ったことはしていない。しかし、加害者の死を知った時「とんでもないことをしてしまった」と言う、気持ちに駆られてしまった。もしも、私が損害賠償請求だとかそういったことで絶望して死んでしまったならば、私の本意でもなければ意味もないものになる。けれども、仮にも加害者が35歳として1500万であれば普通に働いていたら返せる金額なのだ。私は、借金が原因で自殺をしたということをニュースなどで見るたびに、「おそらく、金の問題じゃなくて、それを取り巻く人間関係が一番大きいだろう」と思っている。そもそも、加害者がこれから先の人生で資力を得る可能性は低いとみていたので、賠償されることはないと思っていた。ただ、私の精神の世界で存在し、怒りをぶつける存在として生きていてくれと願った。私は、とても大事なものを失ったのだと、今日改めて気づいた。愛する人を失ったわけではない、一番悪い形で接触を持った人間の存在でこの10年と言う歳月を生きてこられた、復讐心であるとか憎悪すらもがエナジーになって、私を生かしていた。

どうして、犯罪被害者はずっと泣かなければいけないのですか。被害に遭ったこと自体が大きな不幸で、そこは始まりでしかない。それでいても、日常生活を生きるために、面目を保ちながらなんとかペルソナをかぶって生きている。そこの痛々しさを客観視したとき、自分自身を抱きしめたくなるほどに、悲しいものだと思った。

私が加害者と関わってしまってから、この世には地獄が鳴りやまなくなり、この先もずっと、鳴りやまないのだろう。狂い散らかしてしまいたいほどの不条理を歯を食いしばって、死ぬ気で条理にしようと努力してきた。けれども、そういった努力さえもが加害者の無責任な死と言う形で無下にされてしまった。

すごくひどいことを言うけれども、犯罪者に更生だの反省だのを求める時点で、それは倫理観を持ち合わせた人間の戯言に過ぎないのではないかと思った。まともな精神や知力を兼ね備えていたら、殺人や強盗、性犯罪などに手を染めない、強要されたってしない。その犯行を終えて、社会に出てきていくら講釈を垂れたって、あなたは前科のある立派な犯罪者なんだよと。私は差別や区別をすることは好まないが、人の尊厳や人権、地位、財産、名誉を奪っておいて、自分が死んで勝手に被害者は被害回復したらいいじゃないというような、そんな無理な話があるのかと。前科がある人に言いたいことがある、奪うならば奪われる覚悟をしろと。殺すなら、殺される覚悟をしろと、被害者に償ってから天寿を全うしろと。


それくらいに社会的マイノリティである犯罪被害者が「犯罪被害者です」とリアルの世界で言ったときには、好奇心で事件概要を聞かれ、犯罪加害者よりも差別されるような現実が存在してる。そんなことは、許容できる話でもないし、許容するべきことでもない。けれども、そんなことを公にして生きていられるほどに私は強靭な人間ではない。

私のあった犯罪被害の犯行理由から出所後の生活もすべて嘘で作られた虚構で、それをまた条理に変えていくことは容易なことではない。

ぶつけられるだけ、どうしようもない存在でも生きるべきだったのだ。

私は医師に、「自分の一部が消えたような、そんな気持ちです」と言った。

「そりゃ、そうでしょう。10年間、あなたの心の中で現実にはかかわっていないけれども深いかかわりが毎日あるのだから」と。

誰が、間違えたのだろう。誰が一番先に、間違えてしまったのだろう。ボタンの掛け違えの様に、誰があの日色々な人の心を殺めたのだろう。私には、もう何が真実で嘘なのか分からない。

正直に言えば、死んだ方が楽なんじゃないかって思ってしまった。痛みに耐える日々、奪われた尊厳を俯瞰で見るとき、これから空いた穴を埋める作業。今まで以上に、私が受け入れていくことがあまりに多すぎて途方もない。人が努力できるのは、自分が心からこうなりたいと描いたことか、いつ終わるか日にちが分かっていることしかないのだと思う。いつ終わるのか、いつ鳴りやむのかもわからないこの現実の世界で、もう現実には存在しない加害者に対して、永遠に怒りを持ち続け、死によって加算された怒りをどう逃がしたらいいのかと。

私が死ねないのは、特段の理由なんて実のところない。別に生きていることに執着しているわけでもない。きっと、赤の他人に私の命と言うものが大きく否定されて、自分と言うものの価値が分からなくなってしまったからだとおもう。それに、命に値札が付いていたということだ。私の命や心身の障害に値段が付き、常に値札がぶら下がっている。そんな風に10年も過ごしていたら、自分の価値など無いに等しいと思えてしまう。単純に、責任というものが私を生かしているだけで、何も責任を持たない孤立無援の人間であったら、加害者もろともあの世に一緒に連れて行っただろう。私の優しさと呼べる一分によって、加害者の死を心の片隅で「なんでそんな選択をしたんだ、生きていたら償いながらでも幸せは手に入ったかもしれないのに」とそう言った矛盾が私の心の中の地獄の音を止まないようにさせている。

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