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笑う加害者、泣く被害者

半分、愚痴です。

加害者の死亡→相続人に通知→死亡後すぐ相続放棄を祖父母までしていた→知らなかったのは私だけ。

と言う状況になってから、今まで以上に平静を保つ必要が出てきたり、フラッシュバックの回数、不眠が顕著になった。

加害者が決意し犯行に及んでいる。自身の性欲を満たすためにターゲットにされ、腰椎圧迫骨折の後遺症とPTSDとうつ。私はその薬を飲むたびに、毒を飲んでいると思えてならない。このような被害がなければ、恐らく平穏な日常を営んでいたであろうと。司法は刑を全うしたら=更生したというロジックを展開するが、それは被害者に一切関係のないことで、被害者が求めているのは被害に遭っていない自分を返せということ、しかしそれが不可能だから、失った部分の精神的、肉体的、休業、後遺障害、逸失利益の部分を民事訴訟するのである。しかし、どうやっても回収のしようがない無資力な人間が衝動性の高い犯罪を犯しているケースがほとんどである。中には、「訴訟をしたい」と言っても、弁護士側が「取れないから、お金の無駄ですよ」と言い放つこともある。確かに、殺人などの場合では刑期は無期懲役だったりと到底、社会内で働いて支払えるわけがない。しかし、被害者が出来る私刑と言うものは「法に基づいた」ものに限られる。よく考えても見れば、その損害を与えた加害者は不法行為によって被害者に被害を与えているのである。なぜ、ここまで思い悩んでいるのかと言うと、刑事裁判の情状証人の父親や民事訴訟の時の言い分などを振り返ると、この人たちは何も考えずに自殺か他殺かは分からないが、人としての一分までもを捨てて被害者をさらに泣かせる、それは金銭の回収ができなかったとかそういうことではなくて、なぜ、被害者はいつも蚊帳の外にいなければいけないのかと言うことである。その書類の中には2つ嘘が存在していて、どこまで馬鹿にすれば気が済むんだというところ、またこの死の一因に私の事件が関係していないということはないからだ。私はその十字架までを負って生きていかなければいけないという不条理さである。加害者家族にとっては「これで1500万払わなくて済んだー、死んでくれてよかった」くらいに思っていてもおかしいことではない。一番許せないのは私の事件によって検挙される前に、検挙された事件も入れると8人(うち、7人被害申告なし)の被害者を生んでいるということだ。1度目の犯行は、1時の駅で女性に無理やり口淫をさせたという卑劣なもので、示談金40万円で執行猶予処分となっている。この日本には「加害者のプライバシー、人権」と言うものを持ち出し、諸外国では科学的にホルモン剤などで再犯を防ぐ、隣の国ではGPSをつける、欧米では性犯罪者に対しての心理アプローチを義務づけていたりする。しかし、日本は逮捕→公判→判決で終わりとなり、それ以上は何もせずに病院にかかる、自助会に入るもすべて加害者自身の自己決定である。また、情状証人も「出所後は一緒に住んで監督をする」と言うが、これは疑問ではないだろうか?1人の大人を常に監視し続けることが果たしてできるのか。できないことを「監督します」と言えば、被告人の情状酌量の一因となる。GPSの法案を2020年から政府は考えているが、

なぜ、仮釈放中に限ったことなのだろうか。仮釈放の期間はたかがしれているものでその間は再犯を犯さなかったとしても、仮釈放の期限が終わったら、「じゃあ、これでやれる」と思う人間がいたとしてもおかしいことではない。持論にはなるが「人の人権を侵害したならば、人権の配慮は一部されなくても問題ではない」と思っている。

そもそも論であるが、加害者は勝手に衝動的、計画的かは別としても自身の決定のもとで犯罪行為を犯している。仮に、実刑になったとしてもそこには「可逆性」が存在している。しかし、被害者側の立ち場になって考えたとき、性被害を未だに軽いもの「夜の仕事してるなら、性的搾取をされても仕方がない」であるとか「露出が高い服を着ているから」などと批判する人もあるが、性被害に遭った人たちは「性被害に遭う」と言うことに同意をしていない。そのうえ、多くの人が急性ストレス障害、心的外傷後ストレス障害、うつ病などを発症して、回避行動であるとか過覚醒、フラッシュバック、意欲の低下などを併発する。それは被害が続いておらず、被害から何年たっても変わることのない「不可逆的」な問題である。

「可逆的」と「不可逆的」な部分を比べた際にどちらが大変な思いをするのか、どちらが精神的、肉体的、経済的な負担を負うのかと言うことを考えれば、おのずと答えはでるものであると思う。性被害の一番つらい問題は、自分の体が事件現場であり、常にどこに行くにも被害を想起してしまうことがあるということだ。健全な異性との関係を築けない、人が怖くなることは容易に想像ができることであって、「10年たったんだから、ねえ」と言うようなことは言えることではない。目に見えない被害であるからこそ、また警察に届け出ようと思っても「今から来てください」であるとか「証拠品として下着を今提出してください」など警察では当たり前に起きていて、中には被害者を責める、無理くりにも落ち度を探そうとする警官も存在している。捜査権を持っている警察でさえ、この有様ならば単なる興味関心で被害を聞き、さも信用しているかのように接して周りに吹聴する人も現れる。

私は、犯罪被害に遭ってから「何一つとして条理的」と言うことを感じたことはない。一瞬にして、家庭も崩壊する、心身の健康も奪われる、経済的な負担も重くのしかかる、しかし普通の顔をして社会に溶け込まなければいけない。そういった日々の不条理にいい加減嫌気がさしている。

どうして、権利を行使したのに「加害者の死」によって、その権利が消滅するのか。欧米をみると、一旦、損害賠償等を国が立て替えて加害者に請求していくという方法がある。日本で言えば、第三者行為の届け出(通常、保険を利用した場合7割が組合・国保が負担するが、加害者に7割請求する行為)はあるが、実際に請求したケースは聞いたことがない。一度、損害賠償を国が立て替えれば、被害者は少なくとも民事訴訟によって得た債権を生かすことが出来て、被害回復の機会が早まるであろう。

なぜここまで、加害者に優しい世界なのかということが問題である。「ないんだから、払いませーん」と開き直る人間もいるし、行方をくらます人もいる。私は、加害者の死亡を知った時点でこれは最終的に相続放棄されて終わりだろうなと思っていたので回収ができなかったことに対するダメージはそれほどはないが、実際は私が67歳までに得られたであろう金銭なのである。この金銭は、加害者が私に後遺症を残すような重大なけがをさせていなければ発生していないし1回目の民事訴訟の際の部分も加害者が不法行為を働かなければ、誰一人として苦しむひとはいなかったのだ。

Twitterで今でもずっと、被害者の方が未成年時代や同意のない性被害で苦しんでいる現実を目の当たりにするが、それだけ長い期間にわたって「被害体験を忘れられない」と言うことが起こっている、それが真実である。私自身も被害を「忘れようと、忘れ果てようとしても忘れられない」と思うように、「私が拒否しなかったから」「私が受け入れていたんじゃ」と自身を責めてしまう。そのすべての元凶は、立場や暴力、脅迫、精神的支配、依存心、被害者の性の無知に乗じた悪質な犯罪であって、なぜ日本はいまだに「性被害者も悪い」と言う論調が存在することが、さらなる被害を生んでいることをなぜ国は理解していないのか。政治家であったり、既得権益のある人が性加害をしてしまうニュースをよく目にするが、その人たちにとって性犯罪が厳罰化、GPSをつけるなどをされてしまったら不利益しかない、法律は自分たちの都合の良いように作られている部分があまりに多すぎる。

「あまりに、被害者が泣く時間が多すぎる。そして、元に戻らない。」

と言うことが悲しい。これは性犯罪に限ったことではなく、全ての犯罪被害者の方たちも同じように泣く時間が長い。私はよく心療内科の医師に「私は、腰痛の後遺症のために張り薬を貼っているが、10年間貼り続けている。24時間10年もそのたびに加害者と再度邂逅する。」と。私にとって、私と言う人間の持つ尊厳が否定され、健康であった身体に障害を負い、精神安定剤や抗うつ剤を飲まなければ生きていけない体にされてしまったことはあまりに耐えがたく、私の25歳当時には二度と戻れないのにずっと、10年前を渇望している。どの被害者の方も同じ気持ちだろうと思う、あの日「あの被害に遭わなかったら」と。その時に戻ることは叶わないと誰しもが分かっているが、考えずにいられないのだ。現状が、あまりに不条理であるから。私は、Twitterで被害者の方が辛い思いを文字にして不条理を声にしていることに深い価値があると思っている、私自身も自分の被害をネットで綴るには10年近い歳月がかかっている。ネットは誰もが匿名で書き込めてしまうため、私が懲戒請求をして懲戒免職となったニュースのスレッドが5ちゃんねるに立ったとき「被害者も同意だっただろ」「ばばあになって金がなくなったから金目当てだろ」「誰も損してないのに処分重すぎ」「こんなん純愛じゃん」と相当に叩かれた。そして、私を特定しようとする人も存在した。しかし、どうやって考えても15,6歳の私が40近い教師を恋愛感情で見ていたということはないし、相当な依存心とマインドコントロールであったと思う。グルーミングのケースを見れば「これは私のことだわ」と思うほかないのである。家に居場所がなければ、誰かを頼るしか未成年は生きていけない。真面目に相談に乗ってくれていて徐々にスペクトラムが発生して、少しずつ性的なことにスライドし抵抗するという選択肢をなくす。該当教師が「意図的」だったかは私にはわからないが、長い時間「私は嫌だとかいっていなかったな」「私も応じたのだろう」と思い続けていた。同じような体験をしている方があまりに多すぎて、私はこの世の中の言う「聖職」というものがさしているものに疑問を抱いている。そもそも性交渉の概念が形成されるのには個人差があるもので、年齢に関係なく「同意していない性的行為は犯罪」であるのだ。いやだと言っていなかったら「同意」とみなす世論も世論であるし、加害者も加害者なのだ。何時に外を歩いていようが、服装がどうであろうが、それが同意と繋がったり加害者の犯罪行為を招いたというのであれば、暴論であるが「こいつ殺してやろう」と思わせた被害者が悪いという方程式が成り立ってしまう。暴論だけれども。しかし、殺人などでは「殺させようとそそのかした」と誰が言うのだ。なぜ、性犯罪に限って言えば「加害者も被害者」のような思考回路に至るのか謎である。私は被告人質問の際に「もしも奥さんが被害者だったら、加害者を許せますか」と聞いた。加害者「許せるわけないでしょ!」と言った。自分の妻がされたら加害者を殺すほどに憎むのに、それだけのことを被害者にしているのだ。私自身、もしも「相談には乗るけど、最終的には性的なことをするから」と言われていたら相談すらしていなかっただろう。性被害のすべてにあるのは、立場の乱用である。それが成績を決める教師であるか、腕力を利用した性差のものか。被害申告をできなかった人を責める人もいるが、しようにも刑事、民事ともに被害を認識したときには公訴時効がすぎているケースである。私は、被害を理解したときを起点とするべきであると思う。仮に10歳で性被害に遭った場合、恐らく性被害にあったことの意味されたことの意味が分からないと思う。しかし、そのころに記憶に長い間さいなまれ「やっぱり性被害だ」と思った時に時効が過ぎているとなると、泣き寝入りするほかない状態が一生続き悔み続ける。仮に、性犯罪の時効が撤廃されたとしたら、「いつ逮捕されるか分からない」と言う状況になるだろう。それが抑止力としてどれくらい強いものとなるかは分からないが、殺人は重大な犯罪とするが、性犯罪やそのほかの犯罪は時効がある時点で犯罪の性質や結果によって大小を決めているように思える。

そして、性加害者に共通しているのは加害行為を自身の中で無理やりに合理化していることである。加害行為を加害行為とすら思っていない、相手にそそのかされたなどである。

「加害者の忘却が被害者の被害からの脱却を妨げる」

と言うように思えてしまう。いじめもそうだが、やった側は忘れているか、悪いことをしたかすら覚えていない。人が尊厳を踏みにじられ、真っ当な幸福な人生を歩むというのにはあまりに過酷な現実が多すぎる上にそれを阻害する真実を知らない人が上澄みをさらって意見することである。それ自体が二次被害である。私は今まで相当数、二次被害的発言を受けているが、どれ一つとして忘れていないし、被害自体を忘れないうえに二次被害でさらに被害が拡大している。それは加害者の無責任な死も含まれ、私一人でこれからの人生思い悩むのかと思うと、ただ、そこに立ち尽くし自分の無力感をさらに感じることになる。

被害者は人間が複数で暮らしている限りなくならないだろう、だとすればせめて、罰則を強化するべきである。すべての人が平均化された被害認識や回復をできると思いあがっている司法にも大きな問題がある。

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