狭い部屋

## Introduction

ある一つの感覚を見つめ直してみた、という話をこれからする。

当時、大学のアカペラサークルに嫌悪感を覚えていたことを、ある仕事を終えてから思い出した。
なんか、なんとも言えず嫌いだった。あのサークルというだけで嫌いだった。
しかし実際には何が嫌いだったのだろう。集団で形成される共通心理めいたものと、個人の性格とを混同しながら批判的な態度を取るのは非常によろしくない。一度この生理的な嫌悪感じみたものをしっかり整理したい。

## 本題じゃないところ

些末な理由をあげるとすれば、例えば公共性の比較的強い空間――例えば通路だとか駅前の広場だとか――においてドンと場を占有するかのごとく練習をしていたり、全体の音が揃うことの方を意識する姿勢は読み取れるもののピッチそのものが全体で甘いにも関わらず満足げな顔をしているところに意識の甘さを感じる瞬間があったり、あるいはそういう下手な方に限ってイキリムーブめいた我が物顔をしているのを(それこそ通路を通りがかる時に)見かけたり、と、簡単に言えば「なんか鼻に付く」ようなものを外から眺めていた。
もっとも、例えば通路を占有するようなムーブに関しては、ウチのサークルも大概だったと思う(部活動とは関係のないキャッチボール、大声での歓談を延々とする等)し、あるいは彼らが通路で練習することは仕方のない問題であった(同時間帯での練習があるが室内でそれが出来るのは内1組だけなので、一番力のあるグループ以外は外で練習せざるを得ない)ことは承知している。それに、ウチのサークル内でも音程が甘いのにイキリムーブする奴は死ぬほどいたし、自分自身別に完璧なドラムを出来ていたわけでもないにも関わらず「俺の庭」感を抱いていがちだったことも認めざるをえないので、上記の理由はさほど大きな理由ではない。ある種の共感性羞恥、同族嫌悪であったと言えばそれまでだろう。
が、にもかかわらず名指しレベルで嫌いだと思い込み、しかも自らの所属するところに対してはそういった意識をほとんど持たなかったのは、何故だったのか。

そういえば同様の感覚を、ダンスサークルに対しても抱いていた。
彼らもまた通路で練習をしている姿をよく見かけたが、思うにウチのサークルのどの人間よりもストイックな態度で目的達成のために練習をしていた。彼らの場合はもう少し理由のあるイキリムーブであったと思うのは、それはそれだけの練度を詰み、それを各所で披露してきたこと、それを称える環境を自ら作っていたこと、サークル内での[演者ー観客の態度]の積み重ねによって形成されてきた集団内の自我というペルソナが表出している時の彼らを、僕のような外社会の人間が見つめていただけにすぎないのだ。あれはもしかしたら個人の本当の性格ではなかったかもしれない。
個人単位では別に構わない。問題は、僕が嫌いだと思っていたのは「そのサークル」に対してであったということだ。

## 前提

僕は不誠実で一貫性のない態度を取ることが時々あることを知っている。その上で、生理的な嫌悪感じみたものには何か一貫性がありそうだということに、なんとなく期待している。
そういったことを鑑みながら、これらの事柄と、その理由となりそうな背景とを、不躾にまとめていくことにする。

まず初めに、これは重要な前提として、僕はダンスやアカペラそのものが嫌いなわけではない。
コンテンポラリーダンスを見てエモーショナルに共感させられることも、アイドルの動きに感心することもある。RAG FAIRやゴスペラーズの曲で好きなものもいくつかある。なんだかんだPentatonixの「Daft Punk」は悔しいけれども好きだ。
技術的なノウハウはないまでも、自分の身体で明らかに不可能な領域ではなさそうだという共感も、これらに対する関心の理由の一つでもある。
であるから、こういった芸術領域そのものに対しての憎悪ではない。まずこれは大前提。

それから、無作為な個人(=プレイヤー、演者)に対する無作為な批判意識でもないと思いたい。
当該サークル内の一人一人を知ることが出来たなら、きっと私は彼らに対して好意的な態度で接するだろう。実際そのうちの数人とは仲良く接したことがある。何よりダンスやアカペラといった自分の領域とは違うものを嗜好する人間の嗜好自体を無下に否定することは、もはやロックでもパンクでも、ましてやジャズでもなんでもなく、ただの無責任なストレス解消のための卑劣な愚行であることを知っているからだ。

であれば、おそらく。
場、集団、その中で形成される集団心理、ある種の法、文化。
僕は、そこに反感を覚えている。

## マイメン観

僕が、アカペラやダンスの共同体に対して一番「嫌いだ」と思うのは、「とりあえず賞賛する」文化である。
ダンスは、これはおそらくマナーの一つとして、プレイヤーに対して、観客席側にいる演者仲間が声援を送るのが常だ。これは自分の仕事上の経験、大学時代の経験の両方から言える経験則である。多少キレが悪くとも、頑張ってそのムーブをしているプレイヤーに対してリアルタイムに声援を送る景色を何度も見た。その声援はステージ上で繰り広げられる技量の良し悪しに起因しない。おそらくは練習風景も含めた総合的な景色(≒頑張りの度合い)と技量の双方を合計して、ゼロでなければ送られる「優しい世界の優しい賞賛」である。
アカペラの場合はもう少し穏やかだけれども、強いマイメン観をステージ上に持ち込む。そもそもアカペラというものはソプラノ~バス・パーカッションまでのロールプレイによって形成される小社会である。誰かがソロを取る時は必ず他の人達は後景に徹するし、全員で前景となる時は強く息を揃える必要がある。そのリレーションシップの形成のためには多大な練習時間を必要とすることも想像に難くなく、度重なる対話とセッションゆえに音楽領域外のプライベートな領域レベルでの相互認知・信頼感が形成されやすいことも認めうる。その上で、「信じでもしなければ成り立たない」ようなものを共同で成り立たせるために、賞賛という手段を選んでいるように思える。
僕は、そこに違和感を感じている。

絶対に、ステージ外では批判や対立があるはずだ。「私」でないものがそこにいる以上、分かりえない領域――正確に言えば「私」の方に持ち込まれるべきではないと思う思想や態度の領域があったはずだ。にもかかわらず、その全てを受け入れている、すべて愛しいと思う、というような態度をステージ上で繰り広げることは、果たして仲間内に対して、そして仲間ではない外社会の人間に対して、ステージ上で取るべき誠実な態度と言えるのだろうか。

マイメン観。仲間意識。
僕が強く欠如している観念の一つであり、生理的なレベルで身を置こうとしない観念である。

輪、内社会に存在する者以外を歓迎-排斥する/しないは関係なく、ただ内に存在する者に対して、誇大とも映るような賞賛を繰り返すような態度、と思ってしまう。
「仲間最高!」みたいなのが本当にわからないのだ。個人単位(1on1レベルの賞賛)はもちろん理解しているが、そのレベルでさえ既にグレーゾーン、「不問の領域、城壁の位置」はある。ましてやそれらが複雑に入り交じる小社会レベル(仲間という特定の、その中の不特定)に対して諸手を挙げての賞賛はとても危険な行為だと思うのだ。城壁で囲われた独立地帯が無数に存在するのを知ってか知らずか、その国土そのものを無頓着に許す行為を、果たして誠実と言うだろうか。
また、(日本的な)マイメン観は、日本のアンダーグラウンド系ラッパーの取ってきた姿勢、いや端的に言えばヤンキーや半グレの社会観のようなものとも共通する。もっとも、反社会的な集団に散見される集団心理の一つだから苦手だ、という短絡的で安直な倫理観があることも否定はしない。その理由も後述する。

輪の中にいなかった人間ではない。むしろ輪の中にいる自我が強い時期もちゃんとあった。
友達がいないという妄言ももう言わない。いなければバンドをやることもないしDiscordで話しながらゲームを一緒にやるような経験なんかないのだから。
仲間がいる、それに甘んじることさえある、最高とは言わないまでも非常に快く思うような関係を他者と築くことが出来ている。にも拘わらず「仲間最高!」的な文言や態度に未だに否定的な気持ちを抱いてしまうのは、なぜか。

## 長い休題、僕の背景

僕は生まれ育って今も住んでいる街を、「ホーム」と言えずにいる。
語義からすれば間違いなく「ホームタウン」であり、知っている道の多さ、店の多さ、顔見知りの多さ、生活模様のなんとなくの予想がつけられることからしたって、どう考えたって「ホームタウン」である。
ランドマーク的な建物はある、イベントもある、陸の孤島でもなく水と木々とコンクリートとが程よく配置されている、生活に困ることの少ない、まずまず住みやすいに違いない街である。
にもかかわらず「ホーム」という冠詞が付くことに躊躇いを覚える。

小学生の頃は、一番近い学校に通っていた。
特別な理由がなければ誰しもがそこにいく、いたって普通の、些末の一つになりうる学校である。
和気あいあいとした1年間、いじめ問題等を起因に学級崩壊した1年間、悲喜こもごもな「普通」を少しずつかじる、当時の「現代らしい」小学校生活をしていた、はずだ。
それから、いわゆる鍵っ子でもあった。
両親が共働きで、ゆえに学童保育の方で時間を潰すこともあった。
横山光輝の『三国志』シリーズを読み、レゴブロックで遊び、時々キャッチボールなどもした。一人遊びも友人づきあいもまるで苦にしたことはなかった。

また、習い事を複数かけもちするような6年間でもあった。
平日夕方の多くを何かしらの習い事に費やし、校庭や公園や友人の家で遊ぶことよりも、どこかしらの教室にいる時間が多かった。土日もバスケットをやっていたし、そこらじゅうに友人がいたはずだ。その多くを忘れたが。
高学年になるにつれ習い事に拘束される時間は増えたし、やがて進学塾にも通うようになった。
無論そこにも友人はいたし、結果として同じ中学に進んだ人もいた。今でもたまにSNSで見かける。
そしてそれに反比例する形で、小学校の友人とは授業時間以外で時間を取ることが少なくなっていった。

地元の中学を選択肢から外したのは、その進学塾に通い始めてからだった。
その中学は当時、学力的な評判もさることながら、噂には窓ガラスが割られたりいじめが横行していたりというものもあり、諸々の評価が最悪レベルであった。スラム的である。
大多数の同級生はそこに進む。学外のバスケットでの友人も半数以上そこに進んだらしい。
僕は、そこを選ばなかった。
親の意向も勿論あった。しかし当人の意識として、そこから成りあがるようなビジョンを抱けなかったこと、いじめのような文化に対して徐々に猛烈な反感を抱くようになっていったこと、そして友人を新しく作り直すことに(過去の経験から)それほど不安感を抱かなかったことがある。
何より、先述の学級崩壊が6年時に起こったこともある。当事者に様々に意見しても全く聞き入れないし理解している様子が無い。そのことに深い失望を覚えた。
「話し合うことができない他人がいる、分かり合えない他人がいる」という思想を深く抱き始めたのはこの頃が最初だろう。

塾が忙しくなって他の習い事をやめ、長年続けていたバスケットもやめた。
僕と同じ中学に進んだ小学校の友人は誰一人いなかった。
そうして緩やかに、美しくなかった地元を捨てていった。

中高一貫校に進んだ僕は、当初こそ数少ない人員とのみ話していたが、徐々に打ち解けていき、運動も学力もそこそこであったのもあってか、なんてことなく普通の生徒の一人になった。
入学前に見た、部員作の「東方シリーズ」のようなゲームにあこがれて、半ばヲタク部であった物理部に入りC言語をやりながらイラストの描き方を学んでいくが、そこの先輩の無関心さに飽きがきて、ほどなくして幽霊部員になる。
音楽の授業の前後でピアノを弾いている幽霊部員の僕を見かねてか、クラスメイトの一人が誘ってくれたのが、後々影響を大きく与えられることになる吹奏楽部であった。
そうして再び僕は、強い輪の一員となる。
勉強もそこそこに吹奏楽部に入り浸っていた僕は、そこで基礎練の楽しみ方について理解することになるのだが、それはまた別の話。

中学の終わり頃から、部活で得たスキルを元に、軽音楽部の存在しない学校の中で、部活の合間にコピバンもやっていた。
これは文化祭のステージに向けた集まりでしかなかったわけだが、それが僕の初めてのバンド活動である。
もちろん部活の方もちゃんとステージがあるので文化祭当日はめちゃくちゃ忙しかったし、当初先輩に黙ってやっていたのでこっぴどく怒られたわけだが、寛大にも許してもらったので並行して続けていた。
そのバンドを見て、別の知人たちのコピバンで誘われて、高校生の時にthe Gazetteのコピーをやったのが、僕のライブハウスデビューでもあった。

幹部代は、進学校であったため高校3年生ではなく2年生の時だった。
ブラバンではその学年全員が何かしらの役職をする。一つの役職を複数人で手分けしたりもしていた。
僕はジャズ部門の長をメインに、そのほか雑用係としてのマネージャーの一人としてやっていたわけだが、その時に「同級生内のパワーバランス」をようやく思い知ることになる。
派閥、というにはあまりにも小規模だったが、いわゆる「仲良い同士」「仲悪い同士」みたいなのをやんわりと感じることが増えた。
とはいえ、ウチの吹奏楽部は強豪校とは違って1軍2軍という垣根もなければ、中学高校という隔たりもない、まさしくワンチームそのものであったので、仲の良し悪しで分裂されては困る。それは当人たちも理解していたので、その問題が表出することはほとんどなかった。が、関係者の中ではあまりにも自明な断絶があったことも否めない。
場、組織、そういったものに対しての難しさと嫌気をやんわりと覚えていったのは、この頃である。
結果から言えば、卒業旅行を全員でいくくらいにはなんだかんだ仲は良かったわけだが、それだって比較的ニュートラルな立場であった部長が発起人でなければどうなっていたかは分からない。

半ばプラトニックな同性愛カップルもいた。それについては全員が寛容であった。否、部活単位ではなく学校単位で、非常に寛容であった。一線を超えて大きな過ちさえしなければ、基本的にはどんなことも寛容であった。
このことも今の自分の性格に寄与しているところはあるだろう。

バンドの方はといえば、文化祭でキャスト側になれるラストイヤーの高2の時に、MVPを取ることができた。
後夜祭、広い体育館の壇上、大勢を前にしたステージ上で仲間と共に騒ぎ散らかした。
この「成功体験」が、その後大学でバンドサークルを選ぶ理由の一つに繋がる。

中高時代は、つまり、輪の中にずっといた。
クラスではヲタ友達と、部活では部活仲間と、ずっとつるんでいた。
同級生数百人という規模の中で、ある程度内外問わず接しつつも、基本的にはその中の数十名とつるんでいた。
輪の中にいて、思えばそれはまさにマイメン同士であった。

中高のマイメンは、しかしそれは地元のマイメンとは性質を異にしていた。
帰る駅が違う、それぞれの流行りが違う、求める将来性が違う、それぞれに裕福寄りの自由な将来選択がある。
中高一貫ではあったが大学が併設されている類の学校ではなかったので、進学先も各々で違う。
さすがに、働くならまだしも高卒フリーター的な選択をしそうな人に対しては心配の目という隔たりはあったが、目標を明確に定め提示することさえできるなら、働こうが、専門学校にいこうが、国公立だろうが、三流私大であろうが、なんだってよかった。
「違う」ことを前提としたリレーションシップの方がマジョリティであった。

そして、学内では底辺レベルの学力であったにも関わらず奇跡的に一般試験で合格してしまった僕は大学に進み、入学2日目で(一般的には)不名誉なあだ名を理不尽な先輩からつけられながら、吹奏楽部的なドラムの退屈さに嫌気がさしていたのもあってバンドサークルに入り、今に至る。
数人、同級生が同じキャンパスにきたが、そのほとんどがキャンパス内でそれぞれの新しい生活を営んでいったし、一人同じサークルにいたやつも、高校時代の友人付き合いを引きずってかサークルの方にはあまり顔を出さず、僕はといえばそのサークル内に入り浸って新規関係構築に精を出し続けた結果、結局中高時代の友人とは、今でもほとんど会っていない。
かつての輪を早々に捨て、次の輪に入ろうとしていた。

話は前後するが、過去の恋人たちとの関係が今どこにも接続していないこと、断絶するように消していったことも、考慮すべき事項かもしれない。

中高時代の相手は、小学校の同級生で、ほぼ唯一、中学以降も連絡を取り合っていた同級生の一人だった。
恋人と便宜上言いはするが、実のところメール上で好意を寄せあう程度のことしかなかった。
互いの文化祭に遊びに行き、カラオケに行き、メールをし……それだけであった。
当時はそれで充分だと思っていたし、正直吹奏楽部の楽しさと忙しさでいっぱいであったし、互いの時間的余裕のすれ違いもあって、会いもしないままに、互いに行為を寄せ合うようなロールをしていた。
そして文面上で別れを告げられたのが大学に入ってから。人間不信を患い好意を見失ったこと、そんな自分のまま貴方を繋ぎとめるのは耐えられない、という一方的な言葉に、返す言葉を見つけられないまま、受け入れてしまった。
つながりを断つことを、やっぱり容認してしまう。

その半年後に、事故的な速さでサークル内恋愛をはじめ、初めて、恋人らしい行動を経験する。
口頭で思いを伝え、デートをし、旅行に行き、ケンカをし、期せずして互いの両親に紹介する形になり、様々な「らしいこと」をした。
1年半ほどの付き合いの後、僕自身の至らなさ8割くらいを理由に別れた。
思い返せば付き合い始めて3ヶ月しないくらいの頃に、「忘れられない相手がいる」と告げられていた。それの代替するような人物になりうる自信もないまま、それでもいい、一時の止まり木にでもなれるなら、と引きずった結果だったとも、今になって思う。
当時の僕には、まだ繋がりを断つことでしか時を進めていけなかった自分には、その感覚は分からなかった。

別れて数年後、大学を辞めてしばらくして、ようやく新しい恋人が出来た。
その時は恰好としては自分から誘う形になっていた。
が、この時ようやく先の恋人の言を思い出すのである。結局引きずったまま付き合い始めてしまい、意識的には否定しつつも、先の恋人と無意識に比較してしまうことが多かった。
そのことを何度も指摘されたし、改善しようと努めてはいたが、一向に気配が良くならない。
収入が悪くなってきたにも関わらず交際費への捻出をしないといけないという二次的な悩みと、春先に『パラサイト 半地下の家族』を見てそのショックの余波を受けたのを皮切りに、どんどんと鬱傾向がひどくなり、ついに桜を見ることなく、半年で別れを切り出した。
初めて自分から別れを切り出した。明確に関係を切るということを、知ってしまった。

話は遡り、進級制度上の理由で退学になる年の春。
今でも親しい後輩と話した時に言われた言葉を、今でも強く思い出す。
「あなたは、これまで関係を切るような選択をしてきすぎたんだと思いますよ。そうしないように努めることもきっと出来ます。」
もしかしたらその言葉がなければ、その後、彼とゲームすることも、ファミレスで何時間も話すことも、なかったかもしれない。
もっと努めていれば、もう少し、これまでの恋人と上手くやれてたかもしれない。分からないけれども。

## 思うに

僕の記憶は、僕の強い感傷は、輪の中の暖かさよりも、輪を去ってからの涼しさの方ばかりよく覚えている。

輪――ひとつのムラ社会に属し続けることを、ある時は意識的に、ある時は無意識的に放棄してきた。属し続けるという努力を怠っていた時間の方が圧倒的に長かった。
それを反省し始めたのが大学のバンドサークルの時であったが、結果、大学を辞めるまでその傾向は直らず、今でもその気質を強く抱いている。
「ムラを捨てた」という記憶の裏には、必ず「ムラにいた」という経験があることは言うまでもない。その上で、断絶と跳躍の経験ばかりを覚えている。
不定期に新天地に飛び込む機会があったことが、隣ムラや、ムラ間の道に思いを馳せる癖がついた。そこが僕の郷愁的態度の一つの大きな視座だろう。
記憶から形成する僕のペルソナは、”トウキョウ”めいた冷たい関係性によって緩やかに繋がるもの、さながら放浪する異邦人である。
(※ここでいう“トウキョウ”とは、習慣や文化の共有/共感が薄い概念的な冷たい都市像のこと、個人主義的な姿勢を指向し、高度経済成長期の各地方から集まった不特定多数の人間が一つの空間に居合わせている東京をアイデアモデルとしており、それ以前の江戸しぐさ的な観念や下町文化といった江戸地方的な概念は含有しない)

バンドサークルそのものに対してムラを強く感じずに済んでいたのは、一つにはそれぞれのバックボーンや趣味嗜好が異なることが内-外の両方から見受けることが出来たこと、それを認める寛容さがあったことが挙げられる。あるいは、ムラ的な姿勢に対してひねくれた姿勢をいだく人たちが作る歪んだムラであったことも、おそらくはそう。一方、ジャズサークルの方は相当にトウキョウであったと思う。

一方で、大学サークルの同期が苦手であったのは、それは彼ら――正確には特定の彼達――が「同期ムラ」を形成しようとしているように思えたからかもしれない。
大学という、出自も趣向も異にするトウキョウの集落内に、空想の錨を共有財として作り上げようとする動きにムラの気配を感じ、飽きを感じていたからかもしれない。

僕にとって街はシティである。限りなくトウキョウ的な、すれ違う人達にいちいち挨拶をすることのない、ノイズで構成されるアンビエントである。温かみという、言葉と視線で覆われるような閉塞的なカントリーではない。

一方、僕にとってのホームとは、ベッドであり、自室である。実家の中のより限定的な空間で、それは庭でもリビングでもトイレでもない。呼吸する他者の存在を許さないような態度の、冷え切った空間が、僕のホームである。
他者は部屋の外、あるいは画面の向こう側、写真の隅、文献の隙間、スピーカーの中に埋もれているもので、それはまるでサブスク配信のように「ここにあって、ここにはない」ものである。
であるから、「ホームタウン」という言い方は気にくわない。あくまでもホームが存在する地域である街、無数のシティの中の一つであり、私の庭ではない。

僕にとっての友人もまたそういう類であった。
長らく「友達」やら「親友」やらという言い方も気にくわなかったわけだが、これもまた(経験則的に)深く通じ合うような人などいないという観点からである。
バンドメンバーの方も、あくまで「代替不可能性が極めて高い、共同作業者」という感覚であり、友人もまた「代替不可能性が比較的高い、知人の一人」という感覚である。

「代替不可能性」こそ「友」と付ける理由だろう、と考えることも出来る。なので最近はそういう呼び方を厭わなくなってきた。
が、いまだにどこか、「その言葉の紡ぎ方をしがちな存在 No.1」「その思想を示しがちな存在 No.1」という比較原則から導き出された、効率良くそれを接種する一番の相手、という意味での「代替不可能性」、だから厳密には「不可能」と思っていない節がある。
なぜなら、その時々で友人を変え、その時々で喜怒哀楽を共にし、そしてそれが無くなったとて生活は滞りなく何事もなく進むし自分は新しく代替を探すだろう、という経験則に基づいている。それが現実的に可能かどうかはさておき。

「ここにあって、ここにはない」ものを、私の部屋の一部だと認めるところに未だ抵抗がある。収集癖はあるが、占有癖はない。無くなったら新しく獲得すればいい。
その中でうっかり無くならずに残してきたもの、それが部屋であり、私足らしめているものなのだろう、という考え。

## つまるところ

要するに、僕は、「僕」の領域が恐ろしく狭いのだ。
狭いし、さらに言えばその部屋の狭さにはめちゃくちゃ拘る。多分ゴミ屋敷的な狭さじゃないと落ち着かないタイプ。
「ひらかれたコミュニティを目指す」団体に所属しておきながらこんなことをあけすけに言うのはナンセンスだなと思うが、しかしそう自覚せずにはいられないわけだ。

小学6年生時の挫折を、あの頃から育んできた冷たさをずっと抱えているから、僕には「マイメン」が分からないのだ。
アカペラサークルやらダンスサークルやらの、あの俺たちは!的な強固な姿勢に対して、ずっと「うるせえお前はお前だし俺は俺だ、押し付けてくるんじゃねえ」とイキっているだけなのだ。
いや実際うるせえんだが。外の人間とビジネスする時くらいもう少し内社会の法規外の事柄があることを汲んでくれ。ああいけない愚痴が。

バンドサークルは、狭かった。内輪だった。
けれども僕がその中で見出していたのは、ムラ社会的な狭さではなく、僕個人が息づくための個室的な狭さであった。だから僕はずっとそこにいた。
個室の狭さを享受していたから、ムラレベルの広さには気づかずにいた。いや、気づきはしていただろうが、それよりも個室の存続の方に重きを置いてロールプレイをしていた。
思えば入部当時の自分の姿勢も、いち早く個室を作るための準備をしていたにすぎない。他者と触れ合うことよりも、まず自分の生活環境を築くこと。そのために他者との関係を作り上げようと努力したこと。そのことの方が身体的な記憶にある。
仲良くない先輩も割といたし。彼らは違う部屋に住んでいたから。シェアハウス万歳みたいなタイプの。君も来なよ!的な。それでいてシェアハウス内の不文律的な、文化的な前提がないと住めないみたいなとこ。その大部屋だとかえって僕は息が詰まってしまう。だから仲良くなかった。
あと個室を押し付けてくる人。これは上述よりもタチが悪いし、仲良くないとかじゃなくて嫌いだった。僕は僕の個室を見つけてそこに住みたいのだ。仮に誰かが作ってくれていたものだったとしても。

そういえば、一年程前にある人の住んでいるシェアハウスにお邪魔した。
シェアハウスというか実際には寮みたいなもので、1階に大広間とかレクリエーションスペースとかがあるタイプのとこ。
その日はその人の誕生日だったので、一人にするのもなんか可哀想だし一年に一度くらいは可能な限り話聞いてやるかという気持ちで部屋で喋っていたら、その家の住人仲間たち十数人が盛大なサプライズを仕掛けていて、僕もそれに巻き込まれる形になった。
その後ゆったりとその人達の一人一人と喋ったが、まあみんな良い人達だった。外から見ただけなら明らかに「アカペラサークル」的なムラなのに。
その記憶も、今回こうして長々と書きながら、いったい何に嫌悪していたんだろうというのを思い返す理由になっている。……あんなに素敵な人たちと一つ屋根の下で呼吸しているんですから、友達がいないなんてもう二度と言わないでくださいよ。いい年してるんだし。
しかしそれでも、つまりムラの中の良さを改めて感じても尚、こういうところは僕の居場所として選ばないだろうなという気持ちを強くした。
施設がどれほど素敵でも、住人がどれほど素敵でも、分かり合えない人たちが無数にいるようなスペースで時々共通のイベントを享受し、一緒に作り上げ、それを分かち合い続けるというのは、とても窒息してしまうな。
少なくとも、今のバンドメンバーの人数以上は、ちょっと私しんどい。気が回らないし。いやそもそも気を回すようなことなんてしてないだろお前と言われたらそれまでなんだが。

トウキョウの中のノイズの一つとして、その中で自由でいたい。
分かり合えないということを逐一感じることはともかく、その冷たさに凍えるような広さに己を曝し続けている体力は、少なくとも今もまだない。
「マイメン」は温かなものだ。でも僕はその温かさにたちまち寝てしまうだろう。起きてもう少しちゃんとモノを見たいと思っているのに。
それなりに体を冷やしながら、凍えない程度に暖を取りながら、僕は僕の視界を広げ続けたい。わがままな相談だな。

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