「やはり徳間和男になる」の意味
厚木市政の発足初期のころ石井忠重という市長がいた。1959年(昭和34年)に波多野元正・初代厚木市長のあとを継いで2代目厚木市長に38歳で就任。緑ヶ丘のレジェンド・徳間和男の証言によれば、石井忠重市政の厚木では「新住民歓迎会」というイベントが行われていた。
いろんなご入厚者を昌栄プラザに招く方法で私と山賊ふみまろが試みているのも実はかつての「新住民歓迎会」とイキフンは一緒である。だが現在は少子高齢化時代、「個と個のつながり」が時代のスタイルになってゆく。そしてその底流には「ファミリー」を再定義するイキフンまでもがある(「山賊を放つことが出版なんだよ」の意味)。
ところで、厚木の文化精神史のすべてを知る男といえば、やはり緑ヶ丘のレジェンド・徳間和男だ。1980年代には縄文時代中期にまで遡る『厚木市史』の編纂委員会の中心にいた。
また、2021年度に刊行された「緑ヶ丘公民館50周年記念誌」の座談会によれば、緑ヶ丘で最初期に電話を引いたのは徳間さんの尼寺ファーマシーであった。
私は1970年代後半以降に緑ヶ丘団地で生まれ育った世代。小学生のころ緑ヶ丘商店街のイリクストア、ウエムラ理容室、マルウチ書店にはよく通ったし、尼寺ファーマシーで徳間さんの姿をお見かけした記憶もある。
さてそこで、なぜいま「やはり徳間和男になる」なのか。いま厚木から新たなカルチャーがたち上がろうとする時機にきているからだ(#だじゅんフェスをやり#だじゅんフェスになる)。
徳間さんが見てきた厚木の景色の全体像にいまいちど思いをめぐらせる時にきている。
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