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「やはり徳間和男になる」の意味

厚木市政の発足初期のころ石井忠重という市長がいた。1959年(昭和34年)に波多野元正・初代厚木市長のあとを継いで2代目厚木市長に38歳で就任。緑ヶ丘のレジェンド・徳間和男の証言によれば、石井忠重市政の厚木では「新住民歓迎会」というイベントが行われていた。

今考えるとにわかには信じがたい石井政策の一つに「新住民歓迎会」を挙げることができるでしょう。私たち緑ヶ丘住民(いわゆる新住民)のためにユニシアの大食堂にて、大歓迎会が催されたのです。ちょっとユニークだと思いませんか?でも今では、その事実を知る緑ヶ丘住民はほとんど亡くなってしまいましたが……。

徳間和男「新時代読点記」(タウンニュース、2019年12月20日号)

いろんなご入厚者を昌栄プラザに招く方法で私と山賊ふみまろが試みているのも実はかつての「新住民歓迎会」とイキフンは一緒である。だが現在は少子高齢化時代、「個と個のつながり」が時代のスタイルになってゆく。そしてその底流には「ファミリー」を再定義するイキフンまでもがある(「山賊を放つことが出版なんだよ」の意味)。

山賊ふみまろと太一君(2023年8月28日、昌栄プラザ)

ところで、厚木の文化精神史のすべてを知る男といえば、やはり緑ヶ丘のレジェンド・徳間和男だ。1980年代には縄文時代中期にまで遡る『厚木市史』の編纂委員会の中心にいた。

また、2021年度に刊行された「緑ヶ丘公民館50周年記念誌」の座談会によれば、緑ヶ丘で最初期に電話を引いたのは徳間さんの尼寺ファーマシーであった。

飛鳥井 緑ヶ丘に公民館ができたいきさつをご存知ですか。
徳間 八百屋さんが店を出していた空き地の活用を相談されて、私が公民館を提案したんだ。
飛鳥井 ところで電話を引かれたのは徳間さんのところが早かったですよね。
徳間 そうそう。尼寺ファーマシーの店名で薬局をやっていましたので、赤電話を置かせてもらいました。他にイリクストアの前に公衆電話、あと住宅公社の事務所、緑ヶ丘ではこの3台しかなかったと思う。

「緑ヶ丘公民館50周年記念誌」

私は1970年代後半以降に緑ヶ丘団地で生まれ育った世代。小学生のころ緑ヶ丘商店街のイリクストア、ウエムラ理容室、マルウチ書店にはよく通ったし、尼寺ファーマシーで徳間さんの姿をお見かけした記憶もある。
さてそこで、なぜいま「やはり徳間和男になる」なのか。いま厚木から新たなカルチャーがたち上がろうとする時機にきているからだ(#だじゅんフェスをやり#だじゅんフェスになる)。
徳間さんが見てきた厚木の景色の全体像にいまいちど思いをめぐらせる時にきている。

やはり厚木をやり風呂になるストリートフォト147点を収録(PDF版155頁)






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